家出の顛末

 十七の春、彼曰く家出という名の冒険をして十八の誕生日の前日に帰って来た。高校の同級生だった。しかしその姿は酷く痩せやつれて過去の面影の一つもない。

「やほ、元気だった? 藤谷」
「いや、俺は元気だけどさ……どうしたのお前」
「世間は容赦なかったって話だ。いろいろとあったわけよ」
「いや、それにしても」

 あまりにその身体がやせすぎている。顔色も悪いし日に焼けているわけでもないから肌は青白い。伸びた髪をかき上げる爪の色も悪く、酷く疲れた顔をしていた。

「あ、ごめん、ちょっと座るわ」

 目でも眩んだかのように彼は突然座り込んで、長い長いため息をつく。大丈夫なのか、その俺の心に気がついたのか彼は気にするなと手を振った。

「ね、海の見える街に行ったよ。朝から晩まで見ていた景色は、世界の果てが遠すぎて少し怖かった」
「突然の休学前にせめて相談してくれてもよかったんじゃないか?」
「藤谷、言うと心配するじゃん。すぐに帰るつもりだったし……ゲホ、ゴホッ、コフッ、ごめ」

 息をするのすら精一杯にしか見えなかった。体格は良い方に見えていた彼は今では平均体型からすると小柄な俺より細い。手首は多分人差し指でもまわる。血管は青く浮いていて、痛々しいというか病的。一体彼はどこまで冒険に行ってきたんだ。

「藤谷は進路決まった?」
「ああ、もうすぐ夏も終わるし……東京の私大文学部目指してる」
「お前らしいなあ、本好きだもんな。そうそう、俺はこれを返しに来たんだよ。ありがとな、長い間借りちゃったけど」

 病床にあった男の生還に至るまでの私小説だった。彼が何か面白い本はないかと言うので確か失踪直前に貸した物。長期休みに神田に行ったときに手に入れた本だが、本はくったりとゆがみ疲れてしまっていた。彼はおもしろかったから何度も読んだと言って笑う。しかしそれはどちらかというと生と死の狭間の物語。繰り返して読んでも俺には疲れるだけだった。

「今回の旅は見えない景色がいっぱい見えた、海だけじゃ無くて、一日の終わりと始まりも何回も見た、あの光景は泣きそうなくらい綺麗だったよ。まあ、そろそろ俺も普通の生活に戻るよ。未来を考えるのも怖くなくなった」
「逃げたいから、家出したのか」
「ここに戻るために出て行ったんだよ、でももうどこにもいかない、から……ッコホッ、ゴホッ」
「おい、大丈夫かっての」

 咳き込む彼の背中は硬く細くて折れてしまいそうだった。こんな身体でよく歩けるものだと。そのとき風に吹かれた彼のシャツからは、消毒用アルコールの香りがする。

「……病院?」

 その言葉に彼は少し怯えた瞳をした、知られたくないものを気づかれた顔。しまった、これは聞いてはいけないことだった。思わず俺は彼から目をそらす。

「医者にさ、このまま生きてることも不思議って言われて、でもあきらめるのはしゃくだったからさ……これ誰にも言うなよ、一人ぼっちで遠い場所に、ほ、本当はすごく怖かったんだ」

 断片的な言葉に何の病かと聞くのは今の彼には酷だと思って、俺はそうかと一言で話を流す。生きていることも不思議、それってどんな気分だった?

「心配するなよ誰にも言わない、その、俺はお前が戻ってきて嬉しいよ」
「はは、なにそれ言ってて恥ずかしくないの、藤谷」
「何だよ、素直な言葉を言ったらいけないのか?」
「あは、お前が変わって無くて安心したよ。うん、そうだなずっとそのままでいてよな、藤谷はさ」

 彼が件の私小説のように再びこの世に帰って来たらよかったのに、しかし過酷な人生を書き起こす程の生命力はこのときの彼にはもう無かったらしい。
 それから一年もたたない頃、今度は本当に彼は姿を消してしまった。行く当てのない旅路、それを知った俺は遠く東京にいて一人ただ故郷を向いて一礼する。
 生きようとして、帰って来たのにな。変わってしまったのは俺の方だ、いつしか彼がいなくても生きていることが出来るようになってしまっていただなんて。
 また懲りずに冒険に行ったのか、お前は。じゃあ今度会うときは一緒に海の見える街に行って話そう。お前の見た景色を、俺にも一緒にみせてくれないか。

『なあ藤谷、どんな気分だ、お前の未来は明るいか?』

 さあ、どうだろうな。お前のいない東京は今日もただ静かに暮れて行くだけだよ。

【終】