生きてゆくもの

 入院患者高階由乃はいままでの無理がたたって仕事中に倒れ救急搬送された。聞けばストレスを抱えすぎてしばらく食事も睡眠もとれなかったと言うこと。だけど彼はにこにこと笑って、いつも元気だと言うように応対する。その、痩せた身体で。

「日野くん、高階さん知らない?」
「え、いないんですか」
「ベッドに戻ってくる様子なくって、トイレも面会室も全部探してもいないのよ……高階さんあの身体で出歩いて倒れたら危ないから」
「おれ、探してきます」

 彼は穏やかな表情のわりにいつも顔色が悪かった。青ざめた頬にくちびるは白く、痩せた首筋に襟元からのぞくのはやけに浮き上がった鎖骨。肩ほどにつく黒髪は散髪すらいく余裕がなかった彼の生活が垣間見える。

「ちょっと、高階さん……!」

 彼を見かけたのは廊下の端の休憩スペース。痩せて小柄な彼の隣には体格の良い学生服姿の青年が座っている。

「あ、看護師さん。どうも」
「どうもじゃないですよ、部屋に戻って下さい! そんな身体で起き上がらないで」
「今日は気分がよかったので面会に来た弟の迎えに行ってきたんです。ほら、すばるくん挨拶して」
「……どうも」

 なんて無愛想な弟なのかまるで正反対、しかしとにかく急いで再び病室に戻ることを促した。その真っ青な顔で気分が良いもないだろう。

「ちょっと高階さん!」
「その、部屋で話をしたら、同室の方に迷惑でしょう?」
「お隣さんは先程退院して行きました。いまあのお部屋は高階さん一人、気を遣わなくていいんですよ」
「ああ……なんだ、それはよか……」
「ちょっ、高階さん!」

 ぐらり、とその痩せてとがった肩が崩れた。床に頭を打ち付ける寸前、慌てた彼の弟がその身体を受け止める。

「大丈夫です、頭は打ってません」
「いま、人を呼んでくるからちょっとそのままでいてくれる?」

 そして辺りは騒がしくなり、由乃はそのまま部屋に戻された。

 ***

「すばるくん、夕飯代わりに食べてよ……」

 兄、由乃の面会に来た高階すばる。廊下で倒れて以来、意識は取り戻したものの酷く気分が悪そうで水すら飲みたくないと深呼吸で気をそらしている。青ざめた顔にひどい冷や汗で病衣も濡れて、そのままでは冷えるんじゃないかと心配していた。しかし着替える余裕もない由乃は、すばるに運ばれてきた夕食のトレイに乗った食事を震える手で指差し食べてくれるように促す。

「これは兄さんが食べるんだよ」
「気持ち悪いよ、吐いちゃう」
「そんなこと言ってここしばらくなにも食べられないんだろう? また痩せたよな、目の隈ひどいし。吐きそうになったらナースコール使えって言ってたよ」
「いやだ、吐きたくない。何も食べたくない、それなのにいつも食事が運ばれてくる」

 少し不満げな由乃に、すばるは困っている。代わりに食べることは可能だが、栄養が必要なのは由乃のほうだ。就職して一年で酷く痩せて、家を出ていた彼に久々に会って驚いたのは先日のこと。数日後そのまま彼が緊急入院したと聞いて慌てて駆けつけたが、何をしてやったら良いのかわからない。二人は幼いころから遠縁の家をたらい回しで育って、両親はおらずこういったときに甘えられる他の人との関係もなかった。お互いがただ、唯一の家族。

「高階さん、また食欲ありませんか」

 その夕食時に再び男性の看護師、日野がやってきた。由乃は面倒なことになったとでも言うように布団に潜り込む。由乃は普段から愛想はいいが、実のとこは頑なだ。

「兄さんが、いや兄が気持ち悪いって」
「高階さん、自分で食べられそうにないです?」
「すみません、今夜はやめておきます、食事見るだけで嫌で」
「食べられるなら食べた方が良いんですよ」
「……」

 日野も由乃がそう簡単に言うことを聞かないのをわかっているようだった。結局その日の夕食は手つかずで食事は片付けられた。トレイを運んで行ってもらえた由乃は少しほっとした顔をする。

「そろそろ帰るよ、兄さん」
「次はいつ来てくれる……?」
「あさってかな、明日は学校が遅くなりそうだから。今度はもう下まで迎えに来なくて良いよ、また倒れたら騒ぎになる」
「すばるくん、方向音痴じゃないか」
「わからなかったら人に聞いて来るよ、おやすみ」

 ***

「高階さん、お手洗いに行きたかったらナースコールで呼んでね、気を遣わなくて良いから」
「え、一人で行ったら駄目なんですか?」
「高階さん、立ち上がって倒れたら危ないんですよ。今朝も何も食べてないでしょう、貧血ひどくてまだ治ってないから」
「別にそんなに遠くに行くわけじゃないのに」
「なら日野さんなら良いかしら、お手洗いに行くにしても男性ならそこまで気まずくはないでしょう?」
「……」

 面倒なことになった。昨日倒れたせいでベッドから一人で起き上がるのも禁止されてしまって、確かに起き上がるだけでひどい眩暈はするけれど。日野、彼は食事を食べるようにしつこく言うから由乃は正直苦手だった。
 そうそう無理して嘔吐なんかしたくない。苦しいし酷く疲れてしまうし、しかもそれを他人に見られるなんて。
 幼い頃から由乃は誰かに体調不良を言える子供じゃなかった。けれどもともとの体力のなさは、学校の授業中に気分が悪くなることも少なくない。高卒で就職して一年、会社には馴染めずミスを繰り返してしまい上司には目をつけられている。由乃なりに努力はした。朝から誰よりも早く出社して、昨日の復習。でもそれなのに意識しているからか余計失敗してしまいまた怒鳴られるの繰り返し。派手に陰口を叩かれている場に遭遇してしまったのも一回や二回ではなかった。向いてないんだ、この場所に、生きることに。
 もう由乃は全てが嫌になってしまい、気晴らしがしたくて起き上がった。瞬間、ぐらりと身体がかしいで、思わず手すりにしがみつく。強い眩暈、ばさばさとベッド上の文庫本が落ちた、その音を聞きつけた日野が慌てて部屋にやって来たのはその直後だった。

「高階さん! 大丈夫ですか」
「すみません……何でもないです。ふらついてしまっただけです」
「お手洗いに行きますか?」
「いや、そとを、可能なら景色を、外を見に行きたいんです……」
「高階さん?」
「なんだかもう、全部が嫌だ」

 ***

 不安定な患者に寄り添うのも仕事の一つだ。しかしいつも笑顔を見せていた高階由乃が今日は今にも泣きそうな顔をしているのには驚いた。理由はわからないが抱え込む人なのだろう。彼は大げさで嫌だと訴えたが、空いている車椅子に座らせて面会スペースの一角にある大きな窓の前に連れてきた。

「あの線路が最寄りの私鉄のもので、むこうにあるのが東京タワー、見えるでしょう?」
「ああ、意外と遠くまで見えるんですね」
「ここ七階ですからね、見晴らしは良いんです」

 ぼんやりと由乃は窓を眺めていた。そしてしばし日野と十五分ほどたわいのない会話を交わして、そして部屋に戻ろうとすればもう昼食の時間だった。運ばれて行くトレイを見て、由乃の顔がざっと青ざめる。

「高階さん、少し食べてみましょう」
「え、いや……」
「食べたら元気も出ますよ。お腹が空いていると精神も疲れてしまうから」

 由乃はいやだ、と訴えたつもりだった。しかしベッドに戻った由乃のもとに日野がトレイを運んでくる。盛り付けられた煮物と魚の西京焼きに罪はない。

「お手伝いしますか」
「い、いいです」
「お箸をどうぞ、野菜ならそれほど味も濃くないし食べやすいですよ。それで様子を見て平気ならお魚を食べたら良い」
「……」

 気がすすまないながらも小さく由乃の箸はにんじんを切り分ける。口に含んでその一口を飲み込むまでが長かった。それでも意外とすんなり飲み込めたので、次にいんげんに箸を伸ばす。大丈夫だ、そう確信したのか日野が他の患者のへ行った。すぐに戻ると言われたから由乃は黙ってうなずいて。

 ***

 日野の目がなくなって、由乃は箸をトレイに置いた。飲み込んではみたものの胸のむかつきが酷く、腹部には違和感。慌ててコップに注がれたほうじ茶を飲めば、予想外に飲みきれなくて戻ってきたそれを派手にそのまま吐き戻した。それをきっかけにごぷり、と思わず声が漏れて、水分が音をたてて病衣やトレイや食事の皿を汚す。戻ってきたのは水だけじゃない。

「……ゲホッ、え、う……ゴポッ……!」

 病衣からトレイから皆吐瀉物にまみれた絶望感が由乃を襲う。ああ、こんなに汚してしまった、それでも何度も吐き気はこみ上げてきて止まらず繰り返し由乃は嘔吐する。最初から水分なんかとらなきゃよかった……後悔した由乃が口元押さえてうつむいていたところに、日野がやってきた。彼はこの惨状をみて慌て出す。

「高階さん、大丈夫ですか、まだ吐きそう?」
「う……ゴホッ、ゲ……う、ふっ……すみませ、……ゲプッ」
「大丈夫ですよ、辛いなら吐いてしまって構いませんから」

 汚れた彼を責めもせずに由乃の背中をさする日野の手の大きさ、それに弟のすばるを思う。すばるが大人になったわけじゃない、由乃が子供なままなだけなんだ。

 ***

 由乃の身体はぐったりと疲弊している。沈黙の中、日野は清拭をしながら彼のくっきりと浮いた骨の数を数えた。こんなに痩せる前に誰かが助けてくれていたのなら……いまではもうすぎてしまったことだったが。着替え終えてしばらくすれば彼は眠ったようだった。少し無理をさせてしまったかもしれない。しかし、何も食べないままでは良くないし、だから主治医の判断のままに食べさせたのだが、今思えばもう少し由乃の声も聞いてやっても良かった。でも可能ならば自力で食べてくれた方が、彼の身体の回復ためにも良い。由乃だって待っている人のもとに早く帰りたいだろうに、日野は先日会った彼の弟のすばるを思い出していた。彼のこれからを一緒に考えよう。だから今はこのままゆっくりと眠ってくれたら良い。

 ***

 翌日にすばるが見舞いにやって来た。彼はやけに静かだといぶかしみながら由乃のベッドのカーテンを開ける、そこで点滴につながれて眠っている兄を見た。たった数日で随分と弱っている気がする。頬はやつれて蒼白で、眠っているにしても酷く苦しげに眉をひそめてくちびるを噛んだ。

「……すばるくん? 来てくれたの」
「なにかあったのか?」
「食べられないでいたせいか、なんだか起き上がる気力もなくて」

 つながれた点滴だけで生きているような姿だ、すばるの心は動揺していた。

「すばるくんちゃんと学校、行ってる?」
「ああ、もうすぐテストだから」
「そっか、じゃあまたしばらく会えなくなるね」
「来るよ、テストの日でも」
「駄目だよ、進学したいんでしょう? デザイナーになりたいって昔から言ってたじゃないか」

 夢と兄、どちらを選ぶか。人生の岐路にあるすばるだったが、次に紡いだ彼の言葉は迷いなんてなかった。

「勉強は続ける、夢はあきらめない……兄さんのことも。だからまた一緒に暮らそう、学校は働きながらだって通えるから」
「すばるくん」

 点滴のつながれていない方の手を差し出して由乃はすばるの頬に触れた。すばるは愛おしいものを見るように優しく、その手をとり大きな両手のひらで包み込んだ。そして黙って目を閉じる。祈るように、慈しむように。

 ***

「あれ、弟さん帰ったの?」
「はい、テスト勉強があるみたいで。でも明日も来てくれるって」
「嬉しそうだね、高階さん」
「はい、唯一の家族なんです」
「じゃあ高階さん、早く家に帰らないとね」

 その絆は体温よりも熱い。痩せて細いその手にも確実に力があった。日野は確信した。彼は生きる、その意志は強く固い。高階由乃は黙って笑顔を返すだけだった。

(終わり)