理由(例えばその存在について)

 夕方、まだ眠っているかもしれない「彼」を案じて藤間史緒(とうましお)は音を立てないように鍵を開けた。薄暗い部屋で、テーブルの上には手つかずの朝食。横になっている背中がうっすらと見えた。静かに背中は上下している、大丈夫だまだ生きている。
 そこは遠縁だというだけで三年前、幼い頃に両親を亡くした史緒が引き取られた高校教師、生野有栖(しょうのありす)のアパート、しかし二人で住むには少し狭い。
 有栖が教師を病気休業をすることになったのは今年の四月からのことだった。いつも周りに気を遣い、笑顔で何でも許している。それは彼自身の幼い頃からの癖のよう。彼自身も父親が失踪し母親がそれを機に精神を病んで亡くなってもただ一人必死に生きていた。しかしその事実の重みを抱えながらの生活を十年も続ければ、少しずつ壊れてしまうこともあるだろう。だからいまはその結果有栖の心も身体もすっかり病んでしまったという話。恐ろしいことは一つや二つじゃなかった。 
          
「しおくん……?」
「ただいま」
「やだ、もうそんな時間……一日が、寝てるだけで終わっちゃった」

 別に彼は仕事をただサボっているわけではない。弱って病んだ身体ではただ立っていることすらままならなくて、それは今日だけではなく食事も出来ずに横になっている日が多い。少しでも何か食べさせねば、と史緒が学校に行く前に軽食を用意しているのだが、結局今日も食べられず横になっていたままのようだった。布団の中から顔を出せば、朝より顔色が悪い気がする。しかしその青ざめた顔は、目が合うと気を遣って少し微笑むから余計史緒の心には重く、いつも不安がつきまとっている。

「しおくん、今日は学校、どうだった?」
「別に、普通」
「そう……ああ、夏梅先生には会った?」
「会ったけど話はしなかった」
「明日にでもこの前のイチゴ、ありがとうって言ってて」
「口内炎にひどくしみるって、一個も食べられなかったのに?」
「しおくんは美味しかったでしょう」
「まあ、それなり」

 夏梅青詞(なつめあおし)は有栖が高校生の時からの知り合いだった。先輩と後輩、バイト先で出会い同じ大学での生活を経てさらに現在は縁あって同じ高校で有栖は美術、夏梅は数学の教師をしている。腐れ縁にもほどがあるその高校に、さらに去年入学したのが史緒だった。史緒は学内でも目立って高偏差値の生徒が集まる理数科のトップ、数学の授業が多く夏梅とは毎日嫌でも顔を合わせていた。

「今夜、あいつ来るかも」
「夏梅先生が?」
「そう言えば放送で職員室に来いって呼ばれてたけど、俺行かなかった」
「先生来るのかな……じゃあ少し、片付けしないと」

 しかし起き上がった有栖はその瞬間に崩れ落ちる。慌てた史緒は有栖のもとに寄れば、枝のように細い腕が史緒を呼ぶように迷い空を仰いだ。

「有栖!」
「しおくん、ごめん、気持ち悪い……」
「つかまって」

 真っ青な顔は目を閉じている、眩暈が酷く目を開けていられないのだ。有栖の手を取って史緒は乱れた浴衣の彼を軽々と抱え上げて、そのまま彼をトイレまで運んだ。下ろされた途端にそこで有栖はむせ込みながら背中を震わせて吐き戻している。彼をさする史緒の手のひらは、有栖の骨張った背中に。以前よりもくっきりと数えられるほどに背骨の感触がする。多分また、痩せたのだろう。
 朝食も、それどころか昨晩の夕食だってろくに食べなかった。水分ばかりを吐き戻して、もう水分すらでなくなってそれでも苦しげにまだ背中はビクビクとひどく震えて、有栖は水を流すとそのまま壁にがくりと寄りかかって動かなくなった。速い呼吸から俯いた顔をあげ薄く目を開け史緒を見た。震えているかさついたくちびるは荒れていて長いまつげには苦しかった涙が数滴まとわりついている。少し見ただけでもこの状態は全くもって大丈夫ではない。
 痩せているせいでやけに大きく見える有栖の瞳の下には青いクマがくっきりと浮かんでいた。元々の肌の色が白いので余計目立って見える。その白い肌は少し丸みを残す輪郭を持った割に、身体はひどく痩せて骨格が浮き出ていて、まるで作り物の人形のようでもあった。鎖骨は深く、肋骨は際だって本数を数えていくうちにその不健康さにぞっとする。

「布団、戻ろう」
「もうちょっと待って、まだ気持ち悪い……戻すかも」
「眩暈?」
「今日は耳鳴りもひどくて……」

 壁に力なくより掛かっていたその身体を史緒は抱き寄せた。無造作に伸びた髪の毛はいつの間にかもう肩よりも長くなっている。
 彼が身の回りのことすら出来なくなったのはいつからだろう。以前は髪を毎月切りそろえてシャツにはアイロンをかけて、その上に絵の具で汚れた前掛けをして授業を行うスタイルが定番だった。しかし多数の生徒にとって美術は大学受験にはあまり関係ないからと、皆騒ぎ他の授業の教科書を開いて美術の課題には手をつけない。その風景を見てどこか悲しそうに教壇に立つ有栖を史緒は知っていた。それでも彼は最後まで教師であろうとしていたのに。

「おい、史緒! いるんだろ!」

 そのとき突然無造作にアパートのドアを開ける男がいた。鍵を閉め忘れたか、史緒がにらみつけたその先には件の夏梅青詞が立っている。

「ああ、やっぱり史緒帰ってるよなあ、帰る前に寄れっての。俺はお前に渡すものがあってだな……え?」
「勝手に入ってくるな、夏梅」
「いや、鍵開いてたし……それよりなに、有栖大丈夫かよ」
「見てわかるだろ、大丈夫じゃない」

 夏梅の持ってきた紙袋に入っているのはグレープフルーツが数個、しかし彼は無造作に紙袋を放り出してそっと有栖のそばに寄った。冷や汗で濡れた有栖の頬に触れて、眉を潜めながら史緒をにらみつけるように問う。

「また吐いたのか」
「眩暈と耳鳴りがひどいって」
「飯は?」
「食べられない、多分今夜も」
「それでも食わせなかったらまた痩せるだろ、顔真っ青だしくちびるも白い。これ、水分は摂らせたか?」
「でも、戻すから」
「馬鹿、それでもどうにか飲ませるんだよ。無理ならさっさと往診呼べ。かかりつけ、まだ開いてるんじゃないのか」
「……電話してみる」

 史緒が電話をしている間に夏梅は有栖を抱き上げて布団に寝かせる。揺らさないように慎重に、そうしてあらわになった白い胸元の着物も直す。

「おい有栖、吐き気止めも飲めないか?」
「大丈夫、吐き気は、少し、落ち着いてきたから……」

 それでも有栖は吐き気を逃すように深く呼吸を繰り返していた。眩暈発作はここ数日何度か繰り返し起きていてそれと耳鳴りが相まっては、身動きも出来ず複数回の嘔吐が連日続く。処方された吐き気止めは飲んでもすぐに吐いてしまうし、ただ有栖が一人苦しみ喘ぐ様子を見ているのも周りにいる人間にとってはまた辛いことでもある。その日史緒が呼んだかかりつけの医師が訪れて点滴を終えた頃には、すっかり夜が訪れていた。

「あんた、何しに来たんだ」
「あんたって言うな夏梅先生だよ。昨日グレープフルーツがたくさん実家から送られてきたからおすそわけ。せっかくお前に持って帰らせようと思って持ってきたのに無視して帰るから」
「駄目だ、グレープフルーツは薬の飲み合わせが悪い」
「まじか」

 有栖の寝顔を見ながら二人はカップ麺が出来上がるのを待っていた。バタバタしたせいで疲れて料理を作る気力もなくなったのだ。しかし三分たつ前に、夏梅は蓋を開けてしまう。

「のびたらまずいだろ」
「でもまだガチガチじゃないか」
「あのなあ、それが美味いの!」

 バリバリと音をたてながら夏梅はカップ麺を食べている。時間通りに史緒が蓋を開けた頃、夏梅はすでにスープを飲み干しているところだった。

「なあ、最近の有栖は食いたいものはないのか?」
「口内炎がしみるって」
「あ、おいそれじゃもしかしてこの間のイチゴお前が食っただろ? あれは俺が有栖のために……」
「だってしみるんだから仕方ないだろ、それにあれは酸っぱかった」
「お前に高級なビタミン摂らせてもなあ……」

 史緒は黙ってカップ麺の空き箱をごみに仕分けしていた。夏梅はため息をついてそっと有栖のくちびるにふれる。多少の水分は戻ってきているが点滴だけで身体に必要なもの全てが補えるわけではない。
 その日の夏梅は特に用事もなかったので、有栖を見ながらぼんやりとテレビを見たりしていたら日付も変わる頃になってしまった。史緒が勉強に疲れて机でうたた寝しはじめた頃、ようやく有栖は覚醒した。未だ顔色は悪いが、その目には多少の生気は戻っている。

「夏梅先生、明日の準備はいいの?」
「俺は優秀なので三日後までの準備は終わっているのだ」
「ふ、さすが。夏梅先生の力試し耐久小テスト、今年は合格者いるかな」
「基本が理解してたら子供だってできるが、まあ、多分トップは史緒かな。あとは数人ギリギリ合格して、残りは全部補習行き」
「はは、楽しそうで何より」

 横になったままくすくすと笑う有栖の額に夏梅は軽くデコピン。前髪を上げた有栖は一層幼く、やがて二人の関係は出会った頃の高校生に遡る。両親から捨てられた有栖が、親戚の家では貰えない小遣いを稼ぐために始めたバイト先では、先輩と後輩の間柄でそれから数年。同じ大学に進む頃には、いつの間にか歳の差が縮まっている不思議は浪人と留年を繰り返した夏梅の親不孝な事情だった。叔父の家で世話になっていた有栖は大学進学を機に家を出る。他人の家で暮らす気まずさは有栖だってずっと感じていた。

「俺もこの家に来るかなあ」
「夏梅先生には狭いよ、ただでさえしおくんすごく大きくなったから布団からはみだしてるのに」
「お前は小さくなる一方なのにあいつばっかりでかくなって、しかし看病はまだあいつには任せられないな。頼りないんだよ」
「でもしおくんだってまだ子供なのに、僕の面倒ばかりみて学生時代が終わるのもかわいそうだとは思ってるんだ。だからできる限り自分のことは自分で面倒みる」
「俺がお前の面倒をみてやるよ」
「いいよ、僕は一人で大丈夫」
「一人じゃ起き上がれないくせに、どこが」

 ***

 日々をどうにか生きすすんでいた有栖が壊れたのはとある真冬の授業終わりだった。その日も教室では誰も有栖の話を聞くことはなく、ただただ騒がしい声が耳に刺さる。繰り返し注意はしたが声はやまずに有栖は半ばあきらめ呆然としていたところ、突然酷い動悸で息が止まりそうになった。ちょうど鳴ったチャイムとともに教室を出た途端手は震えて吐き気まで襲う。一階端の人の滅多に来ないトイレまで必死にたどり着けば、そのままなだれ込むように個室に入り嘔吐を繰り返す。自分でも驚いていた、多少の騒がしさなんていつもならやり過ごせるはずの事態だったのに、こうやっていま動けないでいるとは。
 生徒が、怖い。もうただ、それだけだった。しかしそんな感情を抱いていたら教師として授業なんて出来ないんじゃないのか。その不安は的中して、その日から有栖は教室に入ろうとするだけで酷く手が震えるようになった。それでも誰にも打ち明けられずに無理矢理仕事は続ける。
 数週間後、疲労で倒れるように食事も出来ずに、たった一日数時間を眠る日を繰り返すようになって、春も近くなり晴れると暖かい日もある頃、夏梅が有栖の身に起きた異変に気がつき始めた。

「よう有栖、昼食いに行こうぜ」
「あ、……昼は少し授業の準備が」
「じゃあ準備終わるまで待つ」
「……」
「有栖、お前は俺にすら助けても言えなくなったか?」

 誰もいない美術室で購買で買ったパン数個を持って有栖と夏梅は食事をしていた。静かな教室内でも、有栖は遠くから響く生徒の騒ぎ声に怯えている。

「お前それ飯じゃねえだろ」

 夏梅の指摘した有栖の昼食は飲みものだけだった。お腹が空いていない、そう返す有栖がここ数週間で急に痩せたのは夏梅だって気がついていた。しわの目立つシャツからのぞく手首の病的な細さ、疲れて顔色も悪く寝不足の目は赤く目の下のクマも目立つ。シャツからうっすら透ける身体は骨張って、痩せすぎの節々がとがっていた。

「有栖」
「……こ、こわくて、授業が。手が震えて止まらないんだ、教壇に立てば動悸がして、授業終わりにはもう限界で吐き気もがして……どうしよう、僕は」
「……有栖、もう良い」

 有栖の両目からは声とともに涙が流れて止まらなくなっていた。苦労の多い人生だった。有栖がついに壊れてしまったのを夏梅は理解して、黙ってそっと彼を抱き寄せる。痩せた身体は柔らかさの微塵もなくて、生物室の骨格標本を抱いているよう。猶予はない、これからを考えなければ、早急に。しかしほんの少し夏梅が迷っているうちに、自宅で有栖が倒れたと動揺し震える声で、史緒が深夜に電話してきたのはこれから数日の間のことだった。

「史緒、大丈夫か……!」

 アパートの薄暗い部屋で布団に寝かされた有栖は疲れた顔で眠っていた。早朝から眩暈と耳鳴りそれによる嘔吐がとまらないと、病院で検査したものの重大な疾患は認められない。結局のところ精神的なストレス過多、そう言われてすんなりと夏梅は納得してしまった。テーブルの上の薬の山、スポーツドリンクとゼリーに缶詰、病人の寝床だなと夏梅はその風景を見てぼんやりと思う。

「この週末は何も食べられなかった、今日は入院もすすめられたけど有栖が嫌だって」
「また変な風に気を遣ったんだろうな、少しは何か口にしたか?」
「スポーツドリンクを少し、もう起き上がってもいられない……貧血もひどいって」
「……入院嫌がってる場合じゃねえな」

 疲れた顔をしている。冷たいのかと思って触れた頬は予想外に熱い。熱まで出していては身体はますます限界だろう。しかしとりあえずは動揺して憔悴している史緒を夏梅は寝かせることにする。

「嫌だ、眠れない」
「横になって目をとじるだけでいい、お前は寝ておけ。今日は疲れただろ?」
「寝ている間に何かあったら」
「俺が起きてるから」

 それからも史緒はぶつぶつと不安を口にしたが、後半はほぼ強引に夏梅は史緒を空いている布団に突っ込んだ。事故で両親を失って、親戚をたらい回しそれから有栖のもとにやって来た少年。消失体験は高校生になっても消えないか。硬い表情だが横になったらすぐに眠ったようだ。彼も彼なりに限界を見たのだろう。

「……なつめ……せんせ……?」
「起きたか、有栖」
「なんで、ここに」
「俺の理由よりもお前はどうなんだ、吐き気は」
「大丈夫、少し落ち着いた……しおくんは?」
「寝たよ、あいつは大丈夫だ。気にするな」

 その言葉に長いため息をついた有栖は天井を見る。夏梅は冷やしたタオルを有栖の額にのせて、黙って薄く上下する胸元を見ている。

「夏梅先生、まだ帰らなくていいの?」
「お前放って帰りゃしないよ、史緒も疲れてるしな」
「もう僕、大丈夫だから」
「いまのお前が大丈夫に見えたら俺も終わったってことだな。今夜はそばにいる、ほら水分とれ」

 抱き寄せて起き上がらせるとぐったりと有栖は夏梅の胸元に寄りかかる。熱い体温、汗ばんだ頬。数口ペットボトルを傾けて、もういらないというように黙って目を閉じる。疲れた顔は相変わらずで、今後を考え始めた夏梅を察したように有栖は呟く。

「三日間くらい、休み取れるかなあ……」
「無理だろ」
「そうだよね、やっぱり迷惑かけちゃうから」
「違う、そう言う意味じゃない。三日で復帰なんて無理だ、少なくとも一ヶ月くらいは」
「そんな大げさな……僕、大丈夫だよ」
「有栖」

 そう、昔から有栖の大丈夫はあてにならない。風邪や些細な体調不良では休まないから良く悪化させて寝込んでいた。真っ青な顔をしても大丈夫だと笑って周りは周りでその有栖の言葉を信用するから、夜遅くに夏梅が動けない有栖を背負って帰宅することがしばしば。送り届けた親戚の家はいつも愛想すらなくしぶしぶ有栖を迎え入れ、決まっていつも乱暴に鍵を閉める音に夏梅は有栖が酷い目に遭っていないか心配になる。そんな過去がかつてあった。

「もう今夜は横になってろ、大丈夫だ、これからのことは俺がどうにかするから」

 ***

「史緒ー、起きろよ飯食え」
「なんでいるんだ」
「ああ? たまには泊まっても良いだろ、着替え借りたぞ」
「それ、俺のパーカー」
「幸いにもサイズがぴったりでなあ」
「返せよ」
「いいだろほら、飯食えって」

 朝食は目玉焼きに野菜とパン、心配していた有栖は穏やかに眠っているようだ。

「有栖の飯は用意してあるから、お前もさっさと着替えて学校行けよな。俺は先に出る、会議あるんでな」
「パーカー、汚すなよ」
「おお、心配すんな大丈夫だ、じゃあとで」

 史緒のパーカーを着たまま、夏梅は一足先に学校に行ってしまった。ベランダを見れば洗濯物は干してあるし台所も片付いている。家事を済ませてくれるのはありがたかったが、少しずつ二人の家に夏梅の気配が浸食しているのには不満である。史緒の知らない昔の有栖を知っている夏梅が、どこか不愉快でたまらなかった。

 ***

「藤間史緒くん、はじめまして。僕は生野有栖です、今日からどうぞ……なんて少し恥ずかしいね」
「……」

 史緒と有栖が初めて会ったのは史緒が中学二年生のときだ。四歳で事故によって両親を亡くした史緒を六歳まで育てたのが祖母、その後祖母も体調を崩しがちになりそれからはよく知らない親戚の家をたらい回しにされた。だから当時二十六歳の有栖のことなんてもとより信頼もしていなかった。どうせ彼も長くて数年、都合が悪くなったら史緒を手放すのだろう。祖父母の家は資産家で財産目当ての親戚もいたから、有栖もその類いだろうと。痩せて頼りなさそうな容姿をして、高校の美術教師だって。
 
「史緒くんは嫌いな食べ物はある?」
「……」
「今夜はカレーライスにしようか、甘口なら大丈夫だよね」
「……」

 声が上手く出ない。反抗心と多少の恐怖、そして重い不信感が史緒の言葉を奪っていた。いつもならこの辺で向こうは変な顔をして皆話をやめるのだ。しかし有栖は独り言を続けている。史緒が答えなくても困らないようにその言葉は結局自己完結していた。身長はもう史緒の方が高くて、遠目で見たら二人は同年代にも見える。有栖の表情は柔らかくて、それに史緒の心は揺らいでいる。信頼しても大丈夫なのだろうか、中学生にそれを見極めるのはまだちょっと難しいところがある。

「せまくてごめんねえ、見ての通り二部屋しかなくって。ここから半分のスペースは君の自由。学習机も中古で申し分けないんだけど」

 薄暗く古びたアパートを彼は自宅だと言った。いままで史緒が身を寄せていた家は皆裕福で、個室は当り前にあたえられていたから少し驚いている。カーペットが敷かれたほうが史緒のスペースで畳の方が有栖の。真新しい史緒の布団はそのスペースに畳まれておいてある。その布団を敷いたらもう自由空間なんてなくなってしまう。会ったばかりの見知らぬ人と今夜から隣同士で眠るのだ、多少の気まずさは感じている。
 ふすまで仕切られたもう一部屋はテレビとテーブルが置いてあって、居間のように使っているようだ。しばらくして戸惑いながらも史緒が荷物を広げだしたのを見て、有栖は満足そうに料理作りをはじめた。

「史緒くん、勉強できるんだねえ!」

 通い始めた新しい中学の定期テストで史緒は全教科満点を取った。周りはそれは驚いた顔をしたが史緒にとってはごく当り前のこと。勉強で点数をとることしか信頼が出来なかったのだ。数字が全て、勉強だけは史緒を裏切らなかったから。だからといって史緒は大人に褒めて欲しかったわけではない。
 それは周りに対する意地でもあった、幸せな生活を何の苦労もなく送っている奴らには負けるものかと。それを知らない有栖は満面の笑みで、解答用紙を全てテープで壁に貼った。その行為に驚いて思わず史緒は声が出る。

「や、やめろよ……!」
「どうして? 史緒くんが頑張った結果だよ。頑張ったらね、もっと自信を持って良いんだから。史緒くんが寝ないで勉強してたの、僕、知っているよ」
「……」
「好きな料理ある? 今夜はお祝い」
「いい、祝わなくていい」
「そう?」

 少し有栖は残念そうな顔をした。彼こそ寝ないで授業の準備をしているのに、それほど毎日が幸せそうではない。それが大人になると言うことなのか、それでもこの日の思い出は良いものとして史緒の心にずっと残っている。

「史緒くん、もう声変わりしてたんだね」
「あ……」
「別に恥ずかしがることじゃないよ」

 それだけ言って、有栖は風呂の掃除に浴室に行ってしまった。初めての会話まで実に三ヶ月、その日から史緒と有栖はぽつりぽつりと会話を交わすようになってゆく。

 ***

「でかいな」
「しおくんだよ」
「……」

 それは初めてアパートに夏梅がやって来た日のことだった。有栖を挟んで夏梅と史緒の初対面はあまり良い印象のものではない。史緒は再び何も話さない子供になり、夏梅は学校の調子でふざけ厚かましくにらみつける。身長はすでに夏梅よりも史緒の方が大きくて、夏梅はそれをやけにからかった。

「その身長で中学生? まじかよ!」
「……」
「なんか言え、でかいくせに」
「……」
「おい、無視すんなよ。でかいから地上の音は聞こえないか? おーいおーい」
「……っ」

 史緒は居間のふすまを無理矢理しめて、布団のなかにもぐりこんだ。何もかもから耳を塞ぐように。

「あーあ、怒っちゃった」
「なんだ、俺のかわいい悪ふざけなのに」
「思春期にあの態度はないよ」
「でも来年、来るんだろ?」

 受験生を迎えた史緒の第一志望は有栖と夏梅の勤務する高校だった。普通科はそれほど偏差値は高くないが理数科は県内では進学校レベル。いまの史緒が本気を出せばきっと簡単に合格するだろう。
 
「楽しみだなぁ」
「もうしおくんをいじめないで」
「わかってるよ、ふざけただけだろうが」

 壁に貼ってあるテスト用紙は増え続けている、いつの間にか満点をとるたびの習慣になってしまった。史緒もまんざらではない様子で、テスト後にはだまってテーブルに満点の解答用紙が置いてある。

「有栖は親馬鹿かよ」
「褒めることは大事、あの子は特に褒められ慣れてないから」
「これから甘やかして育てるのか?」
「そりゃあね、子供の幸せを願うならば。なんて、単に僕がそんな子供になりたかっただけでもあるけど」

 ふわりと遠い方を見る有栖。その過去の片鱗を知っているからあえて夏梅は何も言わなかった。

「いつか報われると良いね、しおくんの努力が。あの子が幸せな大人になれるように」

 ***

 史緒が知っている有栖の教師姿は高校一年生の時のものだった。家庭で見る彼の姿と学校で見る彼はよく似ていて、それくらい有栖は優しく生徒を見守る教師だった。一年生の美術の授業はまだ穏やかな方で、それなりに皆、静かに言うことを聞いている。しかし上級生相手の授業はすでに崩壊していると知ったのは偶然耳にした食堂での上級生の会話である。

「生野はいいだろ、役にもたたねえ授業しか出来ないから。美術の時間は英語の翻訳うつさせてよ、コンビニまでノートコピーしに行くのも面倒だし」
「じゃ代わりに数学みせろ、ノート貸してくれたらクリームパンおごる」

 サボりたい盛りの高校生、しかしそれはふざけて言っているわけではないようだった。現に他でも似たような生徒の声を聞き、あるときその件について一部の保護者から説明を求められて有栖自身が保護者に授業崩壊している事実を謝罪すると言う出来事が起こる。悪いのは有栖じゃない、しかし学校のつくりが有名大学進学目標にシフトして、受験に関わらない授業は軽視され、やがて一方的に守られるのは子供たちだけになった。

「ああ、しおくん? ごめんね、今夜先に夕食すませておいてくれる? 僕はちょっと遅くなりそう……ううん、日付が変わるまでには帰れる、と思う。うん、僕は大丈夫、ふ、じゃまたね」

 その電話はいつもの彼の調子ではあったが声が枯れていた。疲れているのだろう、史緒が高校に入学した年の冬の頃だ。
 スマホを見ながらうつらうつらとしていた史緒は布団の中で有栖が帰宅した音を聞きつけ目を覚ます。しかし有栖は何も言わずに荷物を無造作に置いてトイレに駆け込んで、それからしばらく苦しげに嘔吐いている。物音を聞きつけた史緒は恐怖で動くことが出来なかった。どこか体調が悪いのだろうか、しかし時折すすり泣く声も混じって聞こえてくる。
 これはいま布団から出てはいけない、有栖のプライドに関わる話だ。大の大人が真夜中に吐き戻しながら泣いているだなんて。
 酔っ払っただけの出来事だったらよかったが、有栖は酒を滅多に飲むこともなく、それで酔い潰れると言うこともない。一時間以上トイレから出てこないで、静寂の後、気がつけば朝になっていた。
 史緒がそっと隣の布団をのぞけば有栖の背中が見えている。夜のことは夢だったのか、トイレも綺麗だし部屋も片付いている。しかし、玄関にだけ荒れた後がある、無造作に置かれたコンビニの食料だった。期限が切れそうな弁当と常温になってしまったカフェオレ。これは昨晩の有栖の夕飯だろう。結局彼は何も食べないまま眠ってしまったのか、少なくとも普段はこんなに食料を無駄に扱う人ではない。そっと布団の中の有栖の背中に触れると、予想外に痩せて骨張っている。最近夜が遅く食事も食べているのかわからない日が続いていた。
 目覚ましが鳴ると有栖はすぐに起き上がり、そこで気まずい心を隠した史緒と目があったが表情はいつものように緩く微笑んでいる。けれど史緒はその赤く腫れ上がった有栖の目を見逃さなかった。夜のことは、夢じゃない。その確信した事実を確かめたくて、放課後バスケ部の顧問をしている夏梅の所に向かった。

「おう、史緒じゃん。なんだよ、ついに入部するかあ? おまえでかいから歓迎するよ」
「ちがう、それじゃない」
「……史緒?」

 少し口ごもって、言い淀む。そんな史緒に気がついた夏梅は部員に自主練をするように指示して二人で誰もいない体育館裏に向かった。そこで史緒は思わず涙ぐんで、夏梅にここしばらく、そして昨晩の有栖を打ち明ける。夏梅は冬空を仰いでふと目を伏せて、言いづらそうにため息をついた。

「まあ、確かに授業崩壊は真実だよ。未だに納得していない保護者もいる。そのことは有栖は言い訳もしないが、追い詰められているのは確かだな。あいつ愚痴の一つも言わないんだよ、だから俺からも切り出しようがなかった」
「俺は、どうしたら良い? 何も出来なくてこのまま見ていてもいい方向にはいかないだろう」
「史緒、ここからは大人のすることだ。お前は心配しないで黙っていたら良いから」

 けれど季節はやがて真冬に近づいて行く。
 この頃から「あの日」が訪れるまでにはほんの少しの猶予しかなく、彼の崩壊は思ったより早かった。しかしこの件を夏梅を責めても仕方がない、有栖の終わりは彼自身の自覚もないまま突然訪れたようなものだったから。

 ***

「二週間ぶりになりますが、いかがでしたか」

 土曜日の午前中、史緒は有栖の付き添いで病院にやって来ていた。眩暈発作の酷さと食欲のなさに眠れない夜もあると言うことをぽつりと伝える有栖、支えていなければ倒れてしまいそうだから史緒は一緒に診察を受けていた。受診のたびに痩せるばかりの身体を見て主治医は毎度あまり良い顔をしなかった。案の定今回も入院をすすめられてしまったが、有栖はそれを丁重に断る。だから次も受診予約は二週間後、症状が安定したら一ヶ月に一回でも良いとのことだがそうならないのはまだ心配なところがあるのだろう。史緒の心も不穏だった、また倒れ嘔吐する彼を見るのが怖い。

「しおくん、いつもごめんね土曜日の朝から」
「いや……」
「遊びに行ったりもしたいでしょう、せっかくの休日だし」
「別に予定はないから」

 会計から名前が呼ばれる、そっと有栖から離れて史緒が会計に向かったそのときだった。どさり、と鈍い音が聞こえる。もしやとふりむけば倒れているのは有栖だった。

「あ、有栖……?」

 慌てて駆け寄り背中を叩くも、彼は意識がないのか目を閉じたままぐったりとしている。辺りが真っ暗になりそして騒がしい周囲の物音がもう何も聞こえない、それくらい史緒は動揺してただ必死に有栖の名を呼び続けていた。

 ***

「史緒」

 荷物を抱えながら静かな白い廊下をやって来たのは夏梅だった。不機嫌に見える顔はこの状況の下では不安を抱えているというように見えないこともない。栄養状態の悪さのあまりそのまま入院になったのは倒れてすぐのことだった。有栖は横になったままで診察を受けて、あれから起き上がることも出来ないでいる。血管の浮く左腕はよくわからない点滴につながれて、なにかあったらすぐにナースコールで呼ぶように念を押して看護師は去って行った。
 動揺している史緒は夏梅に急遽連絡をして、あらかじめ渡していた合鍵で彼に当面の身の回りのものを持ってきてもらう。病衣に着替えさせられた有栖が怖い。家に居るときよりも痩せているように見えるし、実際恐らくそうなのだろう。

「史緒、ちょっと来い」
「嫌だ、ここにいる」
「いいから!」

 ベッドのそばでうつむいて嫌がる史緒を半ば無理矢理に夏梅は連れ出す。休憩室で騒がしい集団をみながら彼は紙コップのコーヒーを二つ購入し、一つ史緒に差し出した。

「少し落ち着けって、大丈夫だよ有栖は」
「だって」
「むしろここにいた方が安心だろうが、倒れようが吐こうが全部面倒見てくれるんだから」
「でも」
「泣くか、史緒」

 史緒のかろうじて堪えていたものが決壊してこぼれだした。すすり泣く史緒の隣で黙ってコーヒーを飲みながら夏梅は窓の外を見る。普段よりもあまりに晴れ渡って良い天気で……。

「俺、一人で朝まで寝たことないんだ。あの家に引き取られていままでずっと有栖が一緒だったから、夜も何度も目が覚めるけど有栖はずっと隣で寝てて」
「心配しなくてもすぐに帰るよ、何なら俺と一緒に寝るか?」
「嫌だ、いびきうるさいから……」

 隣で休憩していた騒がしい集団が去り、辺りには静寂が訪れた。どこそこ薬臭いし小さな足音が響く廊下では、どこかの誰かの荷物につけられた鈴の音が聞こえ余計不安をあおって仕方がない。

「なんでいつも有栖ばっかり苦しいんだ、あの人そんなに悪いことしたの?」
「さあ、なんでだろうなあ……あいつはいつも懸命に生きているだけだよ」
「もっと悪いやついるだろ」
「そう言うのはいつか裁かれるよ、必ずな。大丈夫、有栖はどこにも行かない。あいつの人生はまだこれからなんだから」

 何でそう言い切れるんだ、彼の物言いに怒鳴り散らしたい気分だった。しかしにらみつけた夏梅の顔がいままで見たことのないような穏やかな顔で、思わず史緒は言葉につまる。

「俺も大人だし有栖も大人、お前もこれから大人になるんだろう?」
「救ってくれたのは有栖だ、ここまで育ててくれたのも」
「そうだな、じゃあ今度はお前がそうなれば良いんだよ」

 その言葉を受けて、再び史緒が涙ぐみ瞬きに涙が落ちたコーヒーの表面が揺れる。

「あんたは、俺の何を知ってるって言うんだよ……いつもいつも、偉そうに」
「別に良いぜ? 知ってること全部話してやるよ、俺と有栖の間に今まであったこと全部な」
「ああ、徹夜する覚悟は出来てるから話せ、いままであったことを聞かせろ」
「はっ、覚悟しとけよ史緒」

 ぐいっとコーヒーを飲み干して、史緒は手の甲で涙を拭う。夏梅は史緒の髪をぐしゃぐしゃと撫で回して笑った。

「や、やめろよ」
「もうガキが、この程度で泣いてるんじゃねえ」
「うるさい!」

 有栖の部屋にむかって歩けば、窓の外はいつの間にか夕暮れ色に変わっていた。夏梅が少し売店によって行くと言うから一人先に病室に戻ると有栖が黙って窓の外を見ていた。そこから見えるのもまた、夕暮れの空。それだけでまた泣きそうになってしまう史緒は、有栖と目を合わせないようにした。そのとき、史緒の指先に冷たい指が触れる。

「しおくん……」
「な、なに、有栖」
「夜、一人で眠れそう? ずっと一緒だったから」
「馬鹿にするなよ、俺、もう子供じゃないし」

 全てが見抜かれている、それくらい有栖との生活が全てだった。そこへ帰ってきた夏梅が有栖の目が覚めているのに気がつく。

「よう」
「ごめん、僕のせいで呼び出しちゃった?」
「病院の売店って楽しいのな、やる、塩」
「塩?」
「おかゆの味がしないときに使うって人が買ってたから、つい」
「ふ、使い切れるかなあ、お弁当に入ってるやつに似てるね」

 再び有栖の指が史緒の指に触れ絡ませた。無言のまま、史緒と有栖は手をつなぐ。夏梅はそれに気がつかないまま、再び外に出かけていった。

「しおくん、大丈夫すぐに帰るよ」
「ああ……待ってる」

 それだけの言葉で二人は黙り込み、やがて夜が訪れる。離れた夜は恐ろしいか、それでも確実に二人は繋がっている。この体温を覚えているうちは。

「俺、明日も会いに来るから、あさってもその次も毎日」
「うん、僕も、待ってる」
 
 大丈夫、そこにはなにも恐ろしいことなんてない。お互いの声が耳に溶けた。

「生きてるよ……しおくん」

 忘れるわけはない、触れた感触もその声もまた二人の生きる理由であり全てなのだから。

(終わり)