置き去りにして

 師走を過ぎて、冷たい風が通り抜ける。誰もいない家ではいくら食事をしなくても怒られることはない。体重計はないし姿見もないから自分の客観視は無理と言うもの。でもそれで良い気がする、このまま誰にも知られないまま静かに雪のように溶けてしまいたかった。

 ***

「お前食事抜いてるだろ、ひどい顔して」
「生まれつきの顔だから仕方ないだろ、今更一体何しに来たの」

 面倒なことになった。五年ぶりに音信不通だった兄が、よりにもよって今日帰ってきたのだ。彼は僕を見て早速胸元を掴んで壁に押し付けた。なんて乱暴、まあ昔から言葉より先に手が出るような人ではあったが。

「制服脱いでみろ、どんだけ痩せてるんだよ」
「痩せてないよ、別に」
「どこが、そんなにやつれた顔して。元々顔より身体に出るタイプだったろうが、最後に飯食ったのはいつ?」

 うるさい。
 兄は執拗に僕を怒鳴りつける、生きるも死ぬも人の勝手、僕の人生に口出ししないで欲しい。彼はそのまま僕の手を引いて敷きっぱなしの布団に転がした。そして毛布を投げつけて。

「待って、この姿で寝られるかよ」
「顔色悪い、起き上がるな、寝ろ。もう少ししたら食事持ってくるから」
「は? いらない……!」
「飯食うまで寝かせない」

 それはそれで不健康、しかし兄はその矛盾を訂正もせずに戸を隔てた台所に向かって行った。でも冷蔵庫には何もないから、食事を作る材料もない。それで何を作ると言うのか……。
 僕だって自分の身体がもう疲弊しきっているのはわかっていた。何も食べない眠りもしない。ここのところは一ヶ月くらい学校にも行かずに朝から古書店街や夕方の人気のない公園をうろついている。晴れた日は何も食べないまま疲れるまで歩き続けて、帰ったら風呂に入って購入した本を読んで横になったらもう明け方だ。そんな生活を続けているから痩せる一方でこの学生服も身体に合わなくなっていた。ベルトの調整も限界だし、腕時計はくるくる回る。ひどい貧血状態にあるのか眩暈で座り込んでは、自分の身体が壊れて行っているのを自覚して、僕は少し笑ってしまった。良いのだ、これで。自分に対する執着なんか最早この世界のどこにもないのだから。

「おい」

 ふと意識が途切れて気がついたら兄がじろりとこちらを見て茶碗を盆に乗せている。怠い身体を起き上がれば、茶碗には梅干しを落とした白粥があった。米なんてよく見つけたな、梅干しまで。食欲がないと僕は言うも、兄はそれを許さない。

「塩がいるなら持ってくるが」
「良いよ、どうせ全部は食べられないし」
「全くもう痩せた手首だなあ、この馬鹿たれが」

 両親はおらず、家族といえばこの兄だけだと言うのに突然姿を消すから。毎月定期的に生活費は書留で送られてきたが、しかしそれで良いと言うことでは無い。

「兄さん、今までどこで何してたの」
「まあ、生きてはいたがな」
「それはわかるよ、お金来てたし」
「あれで足りなかったら俺の部屋にある楽器を売って構わない」
「仕送りはもう良いよ。生きてゆく気力もない」
「お前なあ」

 猫舌だって覚えていたのか。兄の粥は静かに食べても火傷をしない温度で、僕はそれきり黙って粥を食べ続けた。けれど、久しぶりの食事だからと急いで食べる気もしない。

「お前も生きることは疲れたか」
「まあね」
「なあ、俺はお前に何をしてやったら良い?」
「知らないよ、もう勝手にしろ」
「しかしこのままお前を置いて行くのは」
「もうすでに置いて行ったようなものじゃあないか。五年だよ、最初こそは親戚が時折来てくれたけど、今はもう誰も来ない」
「勝手に出て行って悪かったな」

 悪かった、そう思うのならなぜここまで帰って来なかったのか。食事をしたら力が湧いてそんな些細な怒りも蘇ってきた気がする。そうだ、なぜ僕を置いて……。

「消えようとするな、お前はまだ生きているんだから」

 瞬間、僕の心を見透かした兄に思わず僕は彼に手をあげた。しかしその手には何も触れず……。
 残っていた温かい粥の入っていた茶碗だけが、畳に転がり箸が落ちただけだ。全く何をしに来たんだ、今更こうやって兄は。
 遅すぎるだろう、僕をこの家に一人残して行ったこと。結局、彼は僕を選ばなかったくせに。
 仏壇のそばには彼の好きだった、タバコの箱が供えてある。中身はもうない、彼が幼い僕に空箱をくれたのは、黙ってこの家を出て行く朝のことだった。

 ***

 兄が先月見ず知らずの女性と酒を飲んだ勢いで心中したと言うことを聞いたのは数日前のことだった。だから今月は仕送りが来なかったのか。彼が音楽家を目指していたのは知っている。僕は幼い頃から彼のヴァイオリンを聴いて育ったから。
 夢を持って単身上京して長期休みに楽器を持ってこの家に帰るだけの生活は、きっと彼にとってそれなりに幸せなものだったのだろう。その夢を取り上げたのが、両親の死と僕の存在だって言うこともわかっている。
 幼い僕は、金を稼ぐ術も知らない。両親を亡くして夢もあきらめ、いつの間にか彼の方が壊れてしまったのだ。流水で洗った茶碗は少し縁が欠けている、それはかつて兄の使っていた茶碗だった。

「これじゃあ、ますます誰が生きているのかわからないよ」

 兄はずるい、そして悲しい。
 僕は壊れるまでもう少しのところ、だけど僕はこんなことをされたら生きて行くしかないじゃないか。
 気がつけば窓の外を雪が舞っている。あの雪は彼の身体の一部だろうか、今、ただこの家に一人僕だけを置き去りにして。

(終わり)