対岸から

 夏、岬の兄である晴哉の帰宅は五年ぶりのことだった。両親の離婚で離れてから、岬は彼に会うこともかなわず、仕事人間の父と二人で小さなマンションで静かに暮らしていた。高校一年生の夏、母方の親戚の男性から兄についての急遽連絡が来るまでは。

「入院してたらしいよ」

 何故か岬より遊び来ていた兄と同い年の幼なじみの桂がその事情を知っている。その件について彼にに問うと言いづらそうに声をひそめて答えた。

「田舎だから卒業した今でも話は同級生から伝わって来るんだよ。でも誰も見舞いにはいかなかったって」
「どうして?」
「精神科って聞いてさ、なんか、気まずいだろ」

 精神科、あんなにいつも笑って優しかった兄がどうして。実の弟なのにその欠片も知らなかった事情に岬の心に言いようのない罪悪感が浮かんでくる。誰も見舞いにこなかった病院で一人、きっと寂しかっただろう。その時、インターフォンが鳴り、岬と桂は顔を合わせた……兄だ。

「こんにちは、久しぶりだねぇ岬」
「あ……」
「あれ、桂も来てるの」
「おう、暑くなかったか?」
「暑かった! 駅から徒歩十分でもしんどいね」

 思わず絶句してしまった岬を庇うように晴哉に対して桂は笑顔をむけた。久々の兄はあまりに痩せていて、顔色も蒼白、駅から歩いてきたということが信じられない。何があったの、それを聞いてしまいたかったけれどやはり事情があるのだろう。出てくるはずの言葉が出てこなかった。

「元気だったか、晴哉」
「うん、もちろん!」

 桂の言葉に答えたものの元気になんか見えない。明らかに体調の悪さはわかるし、しかしそれを晴哉は積極的には言いたくなさそうで……。
 慌てて場所を作った兄の部屋は物置がわりだったところで、少し埃っぽいかもしれない。それでも兄は細い腕で抱えてきた大きな鞄をそこへ、それから案内した岬に昼食をとったのかと聞く。

「まだなら桂と一緒に食べなよ、作ってあげる」
「えっ、そんな、兄さん疲れてるよね?」
「別に、少し暑かっただけだから大丈夫。何か材料あるかなあ」

 兄はにこにこと笑って台所へ向かう。どうしたら良いのかわからない岬は黙って桂が見ているテレビの前に行った。

「ねえ、……どうしよう」
「晴哉の好意なんだから黙って受ければ良いだろう」
「だって兄さんが……」
「不倫だって、会社の人と」
「えっ」
「お前と晴哉の母さんのことさ」

 悪い噂ばかりが聞こえてくる。病んだ兄と不貞行為を起こした母。壊れた家族には何も知らず何も出来なかった岬自身に自己嫌悪すらわいてきた。思い出すのは幼い頃、休みの日には公園に出掛けた。そんな楽しくて幸せだったはずの家族が、どうして。

「岬ー、ご飯出来たよ。持っていってくれる?」
「あ……はい」

 キッチンには二人分のミートソースパスタ。晴哉の分は作っていない様子だった。

「フォークとかってどこにある?」
「ああ、レンジの下の棚。ねえ、兄さんは食べないの」
「僕は、良いよ」
「良いって……」
「さあさ、お皿持って行って。冷めちゃうから」

 晴哉に促されて岬はパスタの皿をリビングに持って行く。晴哉はフォークとサラダを二つ、丁寧にリビングをととのえると申し訳なさそうに岬に問う。

「ごめん、ちょっと休んできて良いかな」
「兄さん、大丈夫?」
「やだな、そんな大袈裟な顔しないでよ、少しだけ」

 そうしてリビングには岬と桂が残された。二人、どこか気まずくて黙って食事を始める。パスタは美味しい、離婚以来、岬と父との食卓はほとんどが出来合いのものばかりだったから。

「前に偶然会ったときは高校生でさ、あいつ大学行きたいって言ってたんだけどな」
「じゃ兄さん浪人してるのかな……」
「いや、あの身体じゃ勉強自体無理だろう」

 静かに二人は食事を進める。お互い何も言えなくて、彼の身に起きた不幸になんて言ったら良いのか分からなくて。

 ***

 父はいつ帰ってくるのかがわからなかった。多分今日だって仕事のせいで遅いのだろう。晴哉はあれきり部屋から出て来なくて、桂もまた来るからと言い残して帰って行った。残された岬はふと思い立ち、コンビニへ。暑い日だから、何か飲み物でも……晴哉と岬の分を二つ。

「兄さん、起きてる? ちょっとコンビニで買ってきたんだけど」

 そう告げても返事がない。岬は戸惑いつつ、晴哉の部屋のドアを開ける。晴哉はじっと目を開けて天井を眺めている。

「兄さん……?」
「ね、岬、見てこの腕」

 彼の腕まくりしたその手は細く、青い血管が浮いていた。なんて痩せているんだろう。

「病院では採血しやすいって評判でさ」
「え、ああ……」
「ね、知ってるんでしょ? 僕の噂くらい」
「……ごめん」
「なんで岬が謝るの」

 それきり会話は途絶えてしまった。晴哉は静かに目を閉じていて、少し眠りたいのかもしれない。

「ごめんね、兄さん。俺、何も出来なくって……これ枕元に、置いておくね」

 冷えているサイダーのボトルを一本、岬はそうして部屋から出て行こうとしたその時だった。

「岬」
「兄さん?」

 薄く泡立ってサイダーのボトルが倒れていた、岬を抱きしめる晴哉の腕は筋張って薄い骨格があらわになっている。晴哉の背中が小さく震えていた、そうして絞り出すように岬に向かって必死の言葉を囁く。

「お願い岬、もう少しだけこうしてて……」

 それは誰にも言うことが出来なかった一人の青年が、必死で奥底から救われようと願う瞬間の言葉だった。

(終わり)