兄さんは悪くない

 今から思いだしてみれば、母の兄に対する悪意を含んだ感情は度を超していた。僕に対しては何気なくやり過ごすのに、兄には執拗に責め立てる。例えばシャツのボタンをなくしただけで、彼女は躊躇なく兄の頬を叩いた。そんな母が亡くなって、今年で五年がたつ。

「兄さん、そろそろご飯食べなよ」
「いや、いい、いらない」

 兄は今年、十八歳になった。高校には行かずに中学校を出たあとから部品工場で静かに働いている。そんな兄はクリスマスが近づくともともとなかった食欲は失せて、休みの日には自室にこもりきって何も食べない日が続く。

「いらないじゃなくてさ」
「純が食べれば良いよ……」
「僕はもう食べたし学校行くよ」
「いってらっしゃい」
「兄さんてば」

 ますます痩せた背中が怖い。それなりに重ね着した背中も、背骨の感覚がくっきりわかるとか。目と目が合ったそのときも、顔色は酷く悪かった。
 父は近所の印刷工場で働いていて、昔から子供や家庭を振り返る人じゃ無かった。しかしその父が、連れてきたのが「兄」だったから。

「どうして、私が、他の女と作った子供を……」

 憎しみをこめた母の怒りがふすまを通してもはっきり聞こえていた。隣の布団で横になっているいる兄も、多分聞こえたのだろう。そんな甲斐性ないって思っていた父の隠し子。母親が子供を置いて失踪し、誰もひきとらなかったからって。母と結婚する前に極秘に生まれた子供は、彼女のプライドが許さなかった。
 母の悪意も、わかる気はする。けれど僕は兄が優しい子だっていうことも、誰よりも知っていたんだ。
 僕は玄関に向う途中で壁のカレンダーを一枚破った。もう師走、ああ、タイムリミットが近づいている。兄にとっての冬は未だに酷だ。それはただ寒いだけのことではない。

「ちょっと……兄さん!」

 驚いたのは僕だ。帰宅して子供部屋に入ってみれば、兄が床に転がっている。眠っているのではない、真っ青な顔して倒れたときにぶつかったのか姿見が大きく割れていた。欠片の刺さった左手にはえぐれた切り傷、血を吐いたのかと思った顔は打ち付けたと思われる鼻から出血していた。

「えっと……立ち上がったら目の前が真っ暗になって、それから、覚えてないなあ」
「痛いでしょう? 驚かせないでよそんな傷だらけの血だらけで、見つけた僕の気持ちも考えてみろよな」
「人ひとり減ったところで大したことにはならない」
「なるよ、兄さんは僕のたった一人の兄さんだ」
「最近の中学は、そんなお世辞も教えるのか……」
「もう、僕、いい加減怒るけど?」

 目を合わせたら彼の目は赤く充血していた。倒れるまでずっと眠れない日々が続いていたのだ。鼻血はすでに止まっていたようで、頬にこびりついた跡が拭いてもとれない。左手は縫った方がいいんじゃあないだろうか。これでは仕事にも支障が出てくるだろうし、けれど医者をすすめても兄は柱に寄りかかって座ったまま動こうともしなかった。

「まだ具合悪いの?」
「眩暈がする、手も痛い」
「だから医者に」
「……いいんだ、良いんだよ、僕が痛い方が」
「それってさ、毎年僕言っている気がするけど」

 そのときだった。家の外でけたたましい音がした。事故だ、窓から身を乗り出せば、自転車と車がとまっていた。慌てた僕は、その瞬間に兄を振り返る。

「兄さん」
「あ、……っ、は、はぁ、はぁあ……ひっ」
「兄さん、落ち着いて!」

 過呼吸気味になり兄は手で口を覆って倒れ込む。左手の傷がひらいて、また血が出てにじみ出した。外では集まってきた住人達が騒ぎ出して、でもそちらも気になるが、兄だ。

「ひゅ、ひっ、……はぁ、あっ、息、できな……」
「兄さん! 大丈夫だから、兄さんのせいじゃないから……!」

 兄の目が大きくひらいた。彼が見ているのは過去の風景、普段は滅多に働きもしない母は、毎年クリスマスだけは近所の菓子店のクリスマスケーキ販売の手伝いに行く。
 その朝も母は兄を叱りつけて……理由は覚えていないが多分些細な八つ当たりだろう。勢いよく家を出ながら怒りのままに雪解けの道を自転車で走り、曲がり角を曲がったそのときだ。雪に滑ってスピードを出した自転車は、車を見てもとまらない。ブレーキの音と悲鳴、母に殴られて鼻血を出していた兄は、ハンカチをあてながら音に驚いて僕と家の外に出る。
 イライラしてなければ、母は自転車をスピードを出して乱暴に運転なんてしなかっただろう。もしかしたら雪を眺めながらのんびりゆっくり歩いて行ったかもしれない。
 五年の月日はまだ昨日のことのように思い出せる。運が悪かっただけだ、いまさら犯人捜しをしても、誰も彼もが救われない。

 ***

 結局兄の左手の傷は医者に行って縫ってもらって、ひどい栄養不良のため点滴をした帰り、空からは雪が降ってきた。未だふらつく兄の身体を支えながら、僕はそっと空を仰ぐ。寒いはずだ、もうすぐ今年も終わりまた年を重ねて行く。兄の心にともった罪悪感も、また。

「寒くない? 兄さん」
「……うん」

 街灯の下の兄の顔は些細な明かりでもわかるくらいに青ざめていた。ろくに食事をしないからだ、それでもまたクリスマスを終えたら止まった時間も動き出すのか。

「あの日、俺から自転車に乗らないでって言えたら良かった」

 優しい日もあったかもしれない。いまでは思い出すのもかなわないが、兄がこうして十八をむかえたのは母が彼を育てた証拠。本当に憎らしい子なら何らかの手段でさっさとどこかにやってしまえば良かったのだ。しかし兄に辛く当たりながらも母は、日々食事を作って彼に与えて、なくしたボタンもどこからか似たような物を買ってきて縫い付けていた。兄もまた空を仰いで下を向く。僕は彼の傷のない右手を握った。近所の家では気の早いイルミネーションが、今年のクリスマスのお祝いをしている。

「……兄さんは、悪くない。悪くないよ」

【終わり】