蝉が去った

 大音量の蝉の鳴き声で目を覚ます。しかしまだ季節は夏にはまだ遠く、やがてそれが昌己自身の病んだ耳鳴りだと言うことに気がついた。

「おい」

 寝転がっていた天井、じっと見下ろしている野瀬の顔。しかし頭を動かすと眩暈がするから昌己は黙って目を閉じて彼の声だけを聞こうとした。けれどまた蝉の声が聞こえる……。

 ***

「野瀬、煙草やめたんじゃないの」

 秋屋のカフェで仕事の打ち合わせ。相手を見送ってからも野瀬は居座り、残っていた今日のおすすめのカフェモカを一気飲みした。甘い、その甘さから逃れたくて鞄の奥底に残っていた吸いかけの煙草の箱をあけて、赤の百円ライターで火をつける。打ち合わせ相手が喫煙者だったので、野瀬が座っていた席は喫煙スペース。吸い殻で汚れた灰皿を引き取って秋屋は彼に新しい灰皿を渡した。

「甘いんだよ、今日のおすすめ」
「自分がガムシロ二つも入れたからじゃないの」
「そんなに入れたか?」
「なに? その心ここにあらずなかんじ」

 すうっと曲がったフィルターから煙を吸って、秋屋にかからないように野瀬は煙を吐き出した。ああ、無性にイライラする、そんな彼の雰囲気に秋屋も気付かないわけじゃない。

「昌己くん、来ないの」
「あいつは寝てるよ、昨日から調子が悪い」
「なにそれ、じゃあこんなところでのんびりしてないでさっさと帰りなさいよ」
「今朝になって多少は顔色も良くなったんだ、あいつもさっさと俺に仕事に行けっていうから」
「気を遣っているんでしょ、あの子何かと我慢するところあるし」
「……それなんだよな」

 野瀬だって昌己が、帰ってくれ、今すぐ帰って来てくれ、そういう言葉があったら一目散に帰るだろう。でも昌己は大丈夫だって言い張って布団の中に潜っていった。彼が倒れたのはこれが初めてのことじゃない。

「食事はいくら勧めても食わないし、夜も眠れていないようだし……いっそのこと俺がいないほうが気が休まるんじゃないかと思ったんだ」
「野瀬さ、お前馬鹿だねぇ、それこそさっさと帰ってきちんと話し合いなさい。お前にはオレがいるけど昌己くんには誰もいないんだよ。だってあの子から家族の話すら聞いたことない」
「あいつの家族はちょっとな、訳ありみたいで」
「じゃあ余計可哀想でしょう?」
「……俺は親代わりだって言うのか」
「誰にでもいる、心を打ち明けられる人が。それが誰にも愚痴の一つも言えないでさ、黙って布団に潜って一日を過ごしているの。わからない? それを世間では孤独って言うんだよ」

 ***

 薄暗い天井に向かって昌己の痩せて骨張った手のひらが舞う。いままでここまで痩せたことはなかった、いつから食事がまともに食べられなくなったのだろう。
 幼い頃は兄と二人いつも一緒に遊んでいて、帰りの遅い母を待っていた。だから食事はいつも夜の九時過ぎで……それでも三人で一緒に食べた夕飯は美味しかった。かつて母と手伝う兄の作る親子丼を待ちながら、テーブルを整えて良い子に座って三人分の箸を用意したのを覚えている。食べ終えてもまだ物足りないでいると、それに気付いた兄が残りの一口をくれたことを。

「ふ……」

 全ては終わってしまった、もうあんな穏やかな日は戻らない。再婚してからすっかり母は変わってしまったから。
 ああ、まただ、あれは蝉の声か……、いや、違う。
 耳鳴りかと思えばどこからか携帯電話が鳴っている。昌己はゆっくり倒れないように気をつけて起き上がるも、どこかくらくらと気が遠くなって、必死で手を伸ばした先にある電話を引き寄せれば着信中。発信者は野瀬景、一体何の用だろう。
 だけどきっと仕事が長引いたとか、用事が出来たとか多分そんな薄寂しいような事情だ。自分にはそう言う縁しかないんだって、昌己自身いまでもずっと前からもわかっている。

「……もしもし、野瀬さんですか?」

 ***

 野瀬がそのとき椅子を倒して立ち上がった。慌てて通話していた電話を切る。床に倒れた椅子を秋屋がそっと元に戻して。

「おいおい騒がしいねぇ、なに?」
「帰る」
「あ、昌己くん起きてたの?」
「親子丼だ」
「は」

 それだけ言って野瀬は辺りに置いてあった荷物を片付けだした。ガタゴトとさらに騒がしく乱暴な彼に秋屋は事情がわからない。

「何、何なの?」
「昌己に食べたいものはないかって聞いたんだ、そうしたらいつもはあいつ何も言わないのに、今日は言ったんだよ。親子丼が食べたいって……!」

 灰皿には火を消した吸い殻が、しかし野瀬の勢いで灰が舞う。これほどの彼を見るのはいつぶりだろうか。いつもフラットな野瀬の本気、しかしどこか嬉しそうな目つきをして。

「野瀬、じゃあ美味しい卵あげるよ。うちのカフェはパンケーキにつかう卵ひとつまでこだわっていてさ、これは横須賀の農家さんの……おすすめだよ。きっとこれなら昌己くん完食する」
「ああ、ありがたくいただいていく」

 そう言って卵を持った野瀬がカフェを去って行った。見送る秋屋、今夜の二人の食卓はきっと懐かしい匂いがするのに違いない。

「こう言うときに食べたくなるものは、楽しい思い出が混じっているものだからねぇ」

 そうしてまた思い出は増えていく。大丈夫、野瀬の料理は上手だから。
 夜が訪れようとしている、誰のもとにも平等に、その形は時に優しい。

(終わり)