純情の青

「ね、ね、櫻庭さん、宿題見せてください!」
「また忘れちゃったの?」
「家で考えてもわからなかったのであきらめたんです」
「そっかぁ……じゃ、このお弁当食べてくれたら」

 有馬直生(ありまなお)は物覚えが悪い。今日の英語の課題だって授業を受けていたら分かるはずの問題だったが、家に帰ったら忘れてしまったと言う。櫻庭遥(さくらばはる)は苦笑しながら、半分も食べていない弁当箱を有馬の元へ。

「櫻庭さんこそまたお腹空いていないんですか? この前痩せすぎだって保健室に呼び出されて」
「肉類がどうしても食べられなくって……作ってくれる母さんに悪いってわかってるんだけど」

 高校一年生の教室で二人は課題と弁当箱を交換した。昼休みの教室は騒がしく、もうすぐ夏休みもやってくる。

「櫻庭さん頭良いですよね」
「それ嫌味? もう、誰だって二回も一年生やれば覚えちゃうよ」

 有馬は勉強が苦手で彼なりの猛勉強で補欠合格、なんとかこの高校に入学した。一方櫻庭は元学年トップの留年生。体調不良で休学した高校一年生をやり直している。

「櫻庭さん、弁当美味しいっす」
「ありがと、母さんにお礼言っておく」

 教室の窓際では誰かが飾った風鈴が鳴っている。櫻庭が留年生だと知った同級生はあまり彼に近寄らない、穏やかで優しいその表情もどこか壁を作ってしまっていた。そんな彼に一番近いのがいま櫻庭の弁当を頬張っている有馬だった。高身長に長い前髪、黒縁眼鏡は表情を隠し何を考えているのかわからない。櫻庭とは違った形で彼もまた同級生から壁を作られていた。
 すぐに空になった弁当箱をしまった櫻庭は肘をついて窓の外を眺めている。籠の鳥が外に憧れるように、身体が弱くて体育も満足にできない。体育だけは秀でている有馬にはその感情がわからなかった。
 有馬はじっと櫻庭を見つめていた。その白く細い手首だとか、白く血の気のない頬だとか……思わず彼は息を飲む。

「何、有馬くん?」
「な、なんでもない。なんでもないです!」

 櫻庭には触れてはいけない。だってこんなに綺麗なもの、触れたら壊れてしまいそうだから。それは有馬の心の声で、彼はまだ初恋もしていなかった。

「昼休み終わるよ、机直そうか」

 二人はガタガタと向かい合わせの席を直した、有馬の前の席が櫻庭のもの。これ幸いと有馬はいつもその背中を見つめている。

 ***

 眠気をこらえながら有馬は櫻庭越しに黒板を見ている。ノートをとる気にもならず、課題もやる気にならない。勉強よりも櫻庭の背中を見ている方が楽しい。しかし先ほどから何度も櫻庭が深呼吸を繰り返しているのが気になった。そのうち彼は下を向いて、ゆっくり背中が揺れだして。

「ちょ、櫻庭さん……!」

 危ないと気がついたら早かった。椅子から崩れ落ちた櫻庭を、有馬は慌てて背後から抱きとめる。ひどく汗をかいて顔面蒼白、触れた頬がすっかり冷たくて。

 ***

「多分貧血だと思うけど……夜とかちゃんと休めてたのかなあ、今日は昼ご飯食べてた?」
「た、食べてました」
「……本当に?」
「う、うう……」

 養護教諭の濱浦潤(はまうらじゅん)は昨年の櫻庭を知っている。じっと有馬を睨みつけて、ベッドに寝かせた櫻庭を見てベッドを囲むカーテンの外に有馬を連れ出した。

「本当はね、こう言う話は勝手にしたらいけないと思うんだけど、多分君が一番櫻庭くんに近いから」
「え、はあ……」
「櫻庭くんのお母さん、ちょっと気の短い人みたいで。それに加えて一昨年再婚したお父さんがいるんだけどあまりうまくいってないみたいなんだよね」
「家庭内暴力っすか」
「いや、そこまでひどくはないんだけど……彼自身ストレスで食事が摂れなかったり、夜眠れないことも多いみたいでさ。でも弁当も残すと怒られるからって無理矢理食べては戻したりとか、だから体重だって随分と減っている」

 有馬は櫻庭の痩せた頬を思い出した。いつも笑顔だったけれどそれは本当に心から笑っているのか。彼は学校には休まずに来ていた、そのまま保健室送りになった日だって放課後までは帰りたくないって。

「有馬くん、きっと櫻庭くんを救えるのは君だけだと思うんだ。どうか、君にお願いしたい、櫻庭くんの心をどうか」

 ***

 保健室のベッドの上で櫻庭は目を覚ました。窓の外は夕焼けが見える。少し眠ってしまったかもしれない。

「櫻庭さん」
「あれ、なんで……」

 ベッドサイドには有馬がいた、櫻庭と自分の荷物を持って。

「今日の授業は終わりました、俺頑張って授業のノートとったのでコピーあげるから大丈夫です」
「ごめん、その」
「起き上がれます? ほら、手を出して」

 繋いだ有馬の手のひらは櫻庭の細く白い手のひらとは大違いだった。その力強さに櫻庭は思わずため息をつく。

「櫻庭さん、手ぇ細いっすね」
「自分でも気にしているんだよ。情けないよね、男のくせに」
「いや、そんなことない。綺麗です」
「有馬くん」
「……綺麗です」

 二人、目と目があって思わず櫻庭は目を逸らす。しかし、ふと遠慮がちに有馬を見ると彼は優しく櫻庭を見ている。

「櫻庭さん、今度俺のうちに来てくださいよ。一緒にゲームしましょ、あと勉強も教えてください」

 昇降口は鍵を閉めるところだった。有馬は櫻庭の手を引いて彼の呼吸に合わせながら靴を履き替え校門まで。

「送りますよ、電車っすか?」
「いや、駅前からはバスで……」
「ちょうどよかった、俺自転車だから駅まで乗って行きませんか」
「二人乗りは怒られるよ」
「俺が降りて引いて行きます、だから櫻庭さんは後ろに乗って。あと荷物、貸してください」

 自転車置き場から古いさびた自転車を引いて有馬がやってきた。戸惑う櫻庭を乗せて学校から出て行く。

「バス、乗れそうですか」
「もう、そこまで病人じゃないよ」
「いきなり倒れる方が悪いんです、驚くじゃないですか」
「ごめんって」

 住宅街の終わり、もう少しで駅が近づく。そこで櫻庭の表情が固くなった。

「……櫻庭さん、家帰りたくないですか」
「違う、そんなのじゃ……」
「俺のうちに来てもいいんですよ、ボロくて暑いですが」
「濱浦先生に何か聞いたの?」
「いえ、そう言うのじゃ」
「……」

 沈黙の二人、住宅街を抜けたらもうすぐ駅に着いてしまう。櫻庭の震える手がこらえきれなかった自分の頬を拭っている。

「今すぐは難しいですが、できるだけ早く俺が櫻庭さんを救います。家に帰りたくないなら俺が櫻庭さんの家を作りますから」
「なにそれ、大工さんにでもなるの?」
「櫻庭さんの帰る場所、ちゃんと俺が作りますから」

 駅前に到着し櫻庭は自転車から降りた。彼は自分の荷物を持って頭を下げる。

「ありがと、有馬くん」
「無理じゃなかったら明日も学校来てくださいね、今日の授業であったこと教えてあげます」
「うん、……大丈夫、ありがとう」

 涙声の櫻庭は下を向いたまま答えた。有馬の大きな手のひらが櫻庭の頭をぐりぐりと撫でる。

「もう子供じゃないんだから」
「猫っ毛ですか」
「うん、寝癖もつかない」

 別れがたいその場所で人目を気にして瞬間、有馬は櫻庭の頬に触れた。触れた部分を自らのくちびるを寄せる。

「間接キスです」
「ふ、いまどき古いよ」

 有馬と少しの笑顔を交わして櫻庭はバス乗り場まで歩いて行った。その背中をじっと見つめた有馬こそが、自らの弱さを自覚する。

「助けてあげますよ、あなたが幸せになるために」

 夕焼けも終わる頃、一人の少年は誓いを立てる。
 どうか彼がこれからも生きていてくれますように。

(終わり)