薫風水魚

「はじめまして、薫。僕は眞田理瀬(さなだりせ)、君のお母さんの弟だよ。これからよろしく、楽しく暮らそうね」

 眞田薫(さなだかおる)は中学三年生、実母の失踪によりこの街にやって来たのは春の終わり。いわゆる叔父にあたる理瀬はまだ二十三歳で親子ほどの年の差もない。初めて会った時自分よりも大きな中学生に理瀬はかわいいね、と言った。しかし言われた薫はなんと返したら良いのかわからない。その日から二人はともに暮らし始めるのだが、それから一か月たっても未だ会話は成立してはいない。にこやかに話しかける理瀬に対して薫は酷く無愛想で無口だった。
 ワンルームアパートを半分に仕切って生活をしているのだが、早寝早起きの薫の生活に対して理瀬は夜遅く朝早いからいつ眠っているのかがわからない。理瀬が今年から正社員になったグラフィックデザインの仕事はまだまだ勉強することが多かったから、深夜までノートパソコンを難しい顔していじっている。そして朝には家事をすませて、薫は理瀬によってきちんと作られた美しい朝食を毎日食べて学校に行くのだ。
 食事を終えて使った皿を台所に置く。ふとベランダを見れば理瀬が小柄な身体で懸命に洗濯物を干していた。その背中に違和感を感じた薫、理瀬が以前よりも痩せた気がする。しかしその理由を聞くのがどうしても気まずくて薫は、そのまま黙って着替えて学校に行った。

「つかれた……」

 薫が出かけて、そろそろ理瀬も出勤準備をしなければならない。しかしつい疲れてはてたせいで洗濯物の入っていたかごを置き、床にぐったりと倒れこむ。他の人間に出来ることが理瀬にはギリギリ体力の限界。やりたいこととできることは違うようで、でもそれでも働かないと生活は続かないし……。
 理瀬と姉は祖父母に育てられた。両親は理瀬の幼い頃に離婚してそれぞれが勝手に海外勤務を称して国外へ出る。年の離れた姉も理瀬の幼い頃に家を出た。だから理瀬の生活は祖父母と送る静かなもので、数年前にその祖父も亡くなり祖母は今では一人老人ホームで過ごしている。家族と縁が薄いのは薫だけではなかった。貯金は微かにあるだけで仕事はまだまだ一人前にこなせるほどの技量はない。海の見えるこの街で、理瀬はいま悩んでいる。

「この分じゃ、週末にバイトでもしないとだめかなぁ……」

 薫だって高校くらいは行きたいだろう、それには多少の稼ぎに余裕はないと。遠縁の親戚には薫を引き取る際に問われたことがある。子供一人成人させる覚悟はあるかと。
 そんなもの育ててみなければわからない。でも薫はもうわかる齢だ、今また捨てられたらもう誰も大人を信じられなくなってしまう。それが理瀬は何より怖い。近く血縁があるのは自分だけなのだからと、薫を引き取るのに迷いはなかった。そしてもう一人にしないように。
 姉が失踪したと連絡があったのは半年前、生まれたことすら知らなかった甥っ子は家に数千円の現金とともにたった一人取り残されていた。

 ***

「おはよーございまーす」
「おう、おはよ。理瀬、社長がそこにある土産の菓子食えって」
「また旅行ですか?」
「なんか週末に旅先で知り合った外国人にもらったらしいぞ。今日は写真撮るってもう海行った」
「朝から、はやいですねえ……」

 先輩にあたる河辺青都(かわべあおと)は朝食のおにぎりを食べながら、ぼんやりとパソコンにむかって写真の加工をしている。このデザイン会社の社長である紫藤晃司の旅行先で撮って来た写真素材らしい。デザイン業界では有名な人物だったが、数年前にこの街に会社を移してからはのんびり海に写真の日々を送っている。

「おはよ、理瀬くん」
「翠川さんおつかれさまでーす」
「おつかれ、おや、朝から疲れてるねぇ」
「やだわかりますか? ちょっと昨日仕事でわからないところ調べてたら、つい夜更かししちゃって」
「顔色あまり良くないよね、無理はしないほうが良いよ。身体は大事、本当にね」

 翠川練(みどりかわれん)も先輩である。河辺とは違い細かな気遣いをする、優しく穏やかな人物だった。しかし未だに結婚の気配がないのは彼が他人と暮らすのを極端に嫌がる性格からだ。一人でいることを至高として、その自由は誰にも譲らない。優しくて顔も良いのにもったいないと理瀬は思うが、その優しさも他人とは少し違うのかもしれない。

「理瀬、なんだ、疲れた時は酒でも飲みに行くか? 一杯飲んで飯食えば疲れなんてふきとぶぜ」
「そうしたいところなんですけど、うち中学生いるんで。夜空けられないんですよ」
「ああ、薫くんだね? 元気?」
「翠川先輩、元気ですよー、まだ一言もしゃべってくれないけど」
「じゃ、薫も一緒に焼肉だな! ホットプレートあっただろ、今夜理瀬んちで焼肉にしよう。翠川も来るだろ?」
「良いけど、理瀬くん予定は大丈夫?」
「僕は良いですけど薫が」
「お兄さんがその打ち解けない心を開いてやるぜ」
「河辺、そう言う強引さは時に迷惑になるよ」

 ***

 仕事を終えて理瀬の家に河辺と翠川が来たのは午後七時過ぎのことだった。焼肉だと伝えても薫は表情を変えない。以前にも二人に会ったことはあったが、そう嬉しそうな顔は見せなかったので理瀬は少し心配だった。

「こんばんは、薫くん」
「……」
「おいおい挨拶も出来ないかー?」
「……」

 翠川には無表情だったが続く河辺の言葉に明らかに薫はむっとした顔を見せた。そんな薫を気にもしないで河辺はさっさと室内を片付けて、早々に焼肉パーティーの準備をする。酒の缶を積み上げて、すでにご機嫌。翠川は薫に騒がしくてごめんね、と謝った。

「薫、野菜も食べるんだよ。肉は塩だれが好きなんだよね」
「……」

 薫の皿にそそくさと理瀬が肉や野菜を取りあげて行く。薫は嫌な顔もせず、用意されたものを黙って食べた。それを見て翠川は懐いてるね、と理瀬にささやく。

「そうですか? いつもこんな感じですよ」
「そろそろ話し始めてくれるよ。あともう少しってところじゃない?」

 そこへすっかり酔っぱらった河辺が割込み、氷のグラスにビールを注ぎ理瀬へ押し付ける。理瀬は慌ててグラスを受け取った。

「理瀬ー、飲んでるか? ほらビール!」
「僕ビール苦手なんですよぉ」
「ああ? 子供みたいなこと言ってんな、いいから飲め!」
「河辺ー、それパワハラ。そう言うのだよ気を付けてねぇ、ほら、野菜焼いておくよ」

 ***

 夜九時も過ぎればすっかり宴は終わり、理瀬は疲れ果て河辺は酔っ払い眠ってしまっていた。

「こうやってね食べてすぐ寝るのって良くないんだよー、薫くんはそんな大人にならないように。タオルケット一枚あるかな?」

 翠川の言葉に薫は押入れから畳まれたタオルケットを取り黙って渡す。翠川はそれを理瀬の身体に優しくかけた。

「理瀬くん痩せたよねえ、最近残業してることも多いし体力もつのかな。前々から身体も丈夫なほうじゃないみたいだし、このままじゃって心配するよね」
「……」

 翠川の言葉にじっと薫は眠った理瀬を見つめている。いまにも何かを言おうとしている表情で。

「ああ、もうこんな時間。おれは河辺起こして帰るよ、薫くんは理瀬くんのことよろしくね。今日はもう寝かせてあげて。でも理瀬くんは良いお父さんやってるみたいで安心したよ。君はしっかり健康そうだ」

 ***

「……わ、何時? ねぼうしちゃ……! あ」

 翌朝、飛び起きた理瀬はあたりの様子に目を見開く。すっかりきれいに掃除された部屋に理瀬に負けず美しい朝食。洗濯物も干し終わっている。全て薫のしたことだった。

「えっ、誰? 君がやったの?」

 薫は黙ってうなずいた。それにさらに理瀬は驚く。二人分の朝食にいただきますをすれば、その絶妙な焼き加減の卵焼きに理瀬は絶賛した。

「わぁ、美味しい! なんだ薫、料理上手なんだね。ごめんね僕知らなくって、これは姉さんに習ったのかな」
「全部自分で練習した……母さんは、滅多に帰って来なかった」

 ***

 中学生になるかならないかの子供が、薄暗い部屋に一人で食事の準備をしている。時には失敗もしただろうし、しかしそれを教えてくれるものは誰もおらず。そう考えると、理瀬は言葉にならない。
 会社で仕事をしながら理瀬はぼんやりと薫の言葉をかみしめていた。そこに冷蔵庫から飲み物を持ってきた河辺が話しかけてくる。

「なんだよ、落ち込んでるな理瀬」
「薫が今朝初めて言葉を話したんです、でもそれが思ったより重くって」
「……うん?」

 そこに紫藤社長から声がかかった。理瀬はパソコンをいじる手をとめて社長のもとに行く。社長は椅子に腰かけながらパソコンのディスプレイをご機嫌に磨いていた。

「やぁ理瀬、この間のデザイン良かったよ。相手さんが絶賛してくれてね、また頼みたいって」
「わ、本当ですか? 嬉しいです!」
「仕事は結構だけどね、あの子は元気かい?」
「薫のことですか?」
「父親代わりも大変だろう、覚悟は変わらないか」
「それは、はい。仕事も頑張ります、支障をきたさないように……」
「仕事よりも大切にする事柄だよ、一人の人間を育てるってことは。金銭的に不自由にさせずに、その心のケアもする。まぁ全て理想だけどな」

 ***

 その週末から理瀬は物流工場でのバイトを始めた。帰りには全身が痛むくらいの疲労を抱えつつ、その足で近くの老人ホームへ。祖母との面会だ、しかしもうすっかり認知症の進んでしまった祖母は理瀬を見ても誰かわからない。

「……それでね、やっぱり薫はかわいいよ、おばあちゃん。今日は来れなかったけれど、いつかきっと会いに来てくれるからね」
「……」
「姉さんの子供、おばあちゃんにとってはひ孫なんだよ。すごいよね、もっと早くに会えたらよかった」

 帰宅すると薫は勉強をしていた。理瀬はただいまを告げてふとその背中を見つめる。それに気が付いたのか振り返った薫に、理瀬は慌てて目をそらした。悪いことをしたわけではないが、どこかまだ壁がある気がする。でもこの前は薫の言葉を聞けたし、あともう少し、もう少しだ。そんな日々は続いていたが、負担は確実に理瀬の身体にのしかかる。
 その日は朝から冷や汗が止まらなかった。朝食も食べられず理瀬はそれでも息を切らせながら出勤して、自分の席に座り顔を伏せる。気持ち悪い、眩暈がやまない。

「おはよー、何やってんだ、理瀬」
「河辺さん……」
「うわ、なんだよお前汗酷いな。今日そんなに暑くないだろ」
「きもち、わるい……」
「理瀬?」

 そこに翠川もやって来る。彼は一目理瀬を見ただけで、その体調の悪さに気が付いたようだった。

「ちょっと、理瀬くん大丈夫? 気持ち悪いの?」
「……っ」
「理瀬!」

 そのまま理瀬の身体から力が抜けて、椅子とともに床に崩れ落ちた。寸前で二人が理瀬を支えたものの、部屋中に椅子の倒れたけたたましい音が鳴る。

「河辺、ソファ整えて。寝かせたほうが良い」
「ああ、ちょっと待ってろ」
「理瀬くん! 大丈夫? 起きて!」

 真っ青な顔をした理瀬は翠川の言葉に答えない。目を固く閉じて身体からはぐったりと力が抜けた。二人は表情を硬くしてとりあえず意識の戻らない理瀬を抱き上げてソファに寝かせるが、その日は結局理瀬は起き上がることすら出来なかった。

 ***

 テスト期間、つい家の鍵を忘れて出てしまった薫は仕方なくアパートのドアの前で理瀬の帰宅を待っていた。いつもより早く帰ることが出来たのにこの始末、しかし昼を過ぎたところで、見覚えのある二人が理瀬を連れて帰って来る。

「薫じゃねーか、なんだよ早いな」

 そう言った河辺の背中にはぐったりとした理瀬が。その身体を翠川が横から支えている。驚いた薫は思わず河辺に駆け寄る。

「理瀬!」
「わっ、薫が喋った……!」

 河辺の驚きもそれどころではない。とりあえず理瀬のポケットから鍵を出してドアを開け、空いているスペース優しく理瀬を寝かせる。その顔の青白さに明らかに薫は動揺していた。

「貧血かなとは思うんだけど、かなりひどそうだよね。とりあえず明日おれが朝いちで病院連れてくよ。だからちょっと遅刻する、河辺大丈夫?」
「ああ、まかせとけ。しかしなんでここまで体調崩したんだか……何か変わったことあったか、薫」
「……土曜日もバイトしてた」
「バイト? 平日深夜まで仕事して土曜日まで? よっぽど体力ある人ならべつだけど、理瀬くんは無理でしょ。平日でも精一杯なのに、どうしてそんな無理を……」
「うちの会社基本給安いもんなあ」

 目を閉じたままの理瀬を見ながら翠川はその頬に触れ、一言、冷たいねと呟いた。

 ***

「薫、夕飯、コンビニで買っておいで……ごめんね、僕作れなくって……」
「……」
「ああ、僕の分はいいから、……気にしないで。少し眠るね」

 夕方になっても理瀬の調子は戻らず、薫に夕飯代を渡してそのまま青ざめた顔して床で眠っている。困った薫は何も出来ない。小さな声で再び『理瀬』と名前を呼ぶも、理瀬の耳には届いてはいないようだった。
 やけに月の明るい夜だ。家を出た薫は母と別れた日を思い出す。その日母はやけにはしゃいで派手な赤いワンピースを着て、誰かを一心に待っているようだった。腹の空いた薫に適当に何か買って来いと札束を渡す。その金額の多さに驚いた薫は、何かがあるな、とは気が付いていた。怪しみつつも黙って金を持って家を出て帰ってきたらもう母はいなかった。多分あの日が生涯の母との別れの日だろう。現在ではもう連絡も取れない。
 母がいなくなって数日は一人で暮らしたが、これからどうしたら良いのかわからなくなり薫はアパートの大家に思い切って相談する。大家は顔色を変えて部屋に来て、逃げられた、と言った。母はアパートの家賃も滞納していたらしい。
 それから母の遠縁だと言う親戚になんとか連絡を取り、そしてやがて理瀬と出会う。すっかり大人を信じられない薫は理瀬も信じてなんかいなかったが、彼の真摯な態度に少しずつ心は溶けて行く。
 また、いなくなったりしないよな。
 それは薫にとって恐ろしい出来事だ。理瀬までいなくなったらもう薫のもとには誰もいなくなってしまう。正直母はもう信頼できないから今後一切会わなくても良いが、理瀬は、理瀬は違う、まだそばにいたい。
 この情は親子と似ている。しかしそれほど齢も離れていない青年にこんな思いを向けてしまうのは、彼を縛ることにならないか。現に理瀬が倒れたのだって無理して仕事をし入れすぎたからだし、多分薫がいなければ理瀬も無理はしなかっただろう。迷惑をかけてしまった……? そう思うと無性に涙が浮かんでくる。お願い、嫌いにならないで。

「ふ……う、あ」

 ああなんて月がまぶしい、こんな夜は……。

 ***

「なんだ、一人か翠川。理瀬はどうした?」
「どうしたもこうしたもないよ、全く」
「何怒ってんの、お前が怒るのもめずらしいな」
「過労による貧血にひどい栄養失調! 入院を勧められたけど本人が絶対に納得しなくて」
「なんだそれ、それで理瀬は?」
「取り合えず点滴だけしてもらってる。昼前になったらまた迎えに行くよ、本当あの子は自分の状況をわかっていない!」
「そんなにひどいのか?」
「温厚な医者を怒らせる程度にはね」

 翌朝、言葉通り朝いちで理瀬を病院に連れて行った翠川は不機嫌だった。その不調に気づいてやれなかったこちらも悪いが、動けないくせに無理をまだしようとする理瀬の無駄な根性。いま休んでおかないと万が一のことだってあるかもしれない。その危険性を丁寧に説いていた医者も最後はさじを投げた。勝手にしろ、そう言いたげに結局気休めの点滴をして、でもそれじゃああきらかに栄養も休息も足りないから理瀬の顔色は未だに悪い一方で。

「河辺、どうしたらいい?」
「俺に聞くなよ、理瀬もあれはあれで頑固だしなぁ」

 それからしばらくの時間は悩みながら仕事もそこそこに、室内には重い空気で満ちていた。その時だ。玄関ドアが、ゆっくりと開く。そこにいたのは青ざめた顔をした理瀬だった。

「あのー、すみません、遅れちゃって……」
「理瀬くん? ちょっと、あとで迎えに行くって」
「あ、大丈夫そうなので帰ってきました」
「どこが、大丈夫じゃないだろうが。顔色悪いぞ、理瀬」
「ちょっと、理瀬くん!」

 にこやかな表情をしているが、真っ青な顔で汗もひどい。困った表情の理瀬は迎えに出た河辺の胸の中にそのまま気を失って倒れこむ。慌てた二人が理瀬を受けとめて、その身体を抱え上げた。

 ***

「お前さあ、なんでそう無理をするわけ?」
「……すみません、迷惑おかけして」
「いや、そう言うのは良いんだよ。ただ心配するだろ? いくら若くても何があるかなんてわからないんだからな」
「そうだよ理瀬くん、身体は大切にしないと」

 ソファに寝かされた理瀬は二人の言葉に黙って困ったような顔で笑う。青ざめた顔のままそして小さな声で言った、薫が、と。

「薫くんが、どうかしたの?」
「薫、来年受験なんですよ。いくら何でも高校ぐらいは行かせてあげたいなって。中卒でもつける仕事につくとしても、三年間の学校生活で成長することってあるから」
「……お前だから学費のために無理してたのか」
「修学旅行もありますしね、たくさん楽しい思い出作って欲しいです」

 ***

 学校から帰った薫はぼんやりと部屋に寝転がって天井を眺めていた。以前住んでいたアパートよりも新しいがそれでも年代を感じさせる染みだらけの天井。それでもこの生活に不満を感じているわけではなかった。学校ではそれほど親しい友人は出来なかったが、それなりに穏やかな日々を過ごしている。
 理瀬は何時に帰ってくるのだろう。夕飯を準備しておくようには言われていないが、体調が悪いようだし薫がなにかしておくべきことはないだろうか。自分にとってできることを探さなければ、そんなことを考えていた、その時だ。

「おおーい、薫いるか?」

 突然開いたドアから聞こえた河辺の声に薫は飛び上がった。なぜまたあいつが、苦手な理瀬の同僚の背中にはまた理瀬が背負われて帰って来た。その身体を困った顔した翠川がさすっている。

「あ……」
「よう、元気か? 理瀬ちょっと動けないから布団敷いてくれ」
「わ、わかった」

 慌てて布団を敷いている間にも理瀬はぐったりとして河辺や翠川の声に反応すらしない。また倒れたんだ、どうしたらいいのだろう……年齢よりも上に見られるが薫はまだ中学生、出来ることは少なかった。

「薫くん、冷やすものあるかなぁ。理瀬くん熱出しちゃって」
「タオルで良い?」
「うん、氷水があったらそれで冷やして」

 理瀬の額には汗が浮かんでいた。熱は思ったよりも高いようで理瀬は赤い頬をしながら早い呼吸を繰り返している。冷やしたタオルを渡せば、翠川がてきぱきとした手つきでその額に乗せて熱を逃す。

「薫、お前人生きちんと考えろよ」
「……」
「理瀬も無理するまで自分の人生かけてお前のために生きてんだ、進学とかそれから先のこととか適当に生きてるんじゃねえぞ」
「そ、そんなの……わかってるよ!」
「わっ」

 理瀬はそばにあったハンカチを河辺に投げつけ、そのまま部屋を出て行った。その事態に気がついた理瀬が止めようとするも、身体に力が入らず起き上がることが出来ない。

「か、かお、……!」
「ちょっと、理瀬くんはおとなしくしてなさい! もう、河辺なんでそんな言い方するの」
「ガキには強く言ってわからせたほうが良いんだよ」

 理瀬の震える手は力尽きてその手は床に落ちる。翠川は河辺に追いかけるように指示して力ない理瀬の手を取った。

 ***

 全て自分のせいだ、薫は夜道を一人歩く。薫には持っている財産なんてなかったし両親ともに連絡すらとれない。進学のことを考えたらやはり理瀬に頼るしかないのだ。しかし河辺の言う通り、理瀬には多分無理をさせることなのだろう。いまだって贅沢できるような暮らしはしていない。
 適当に考えて日々を生きているつもりはなかったが、そこまで真摯に考えているわけでもなかった。まだ何も見えずにただ生きているだけ、それではまた薫は失ってしまう。

「おい待て、薫!」

 河辺の声に歩みをとめれば、すぐそばには小さな公園があった。

 ***

「まぁ、飲め」

 公園そばにあった自販機で河辺はジュースを買って薫に手渡した。薫は気まずそうな表情を浮かべながら、そのジュースを受け取りベンチに腰かけた。

「悪かったな」
「……」
「理瀬も心配だが、お前も心配なんだよ。お前が幸せになれるのならそれでいいんだ、だからよく考えろって言ったの」
「おれは、幸せになれない。両親ともにおれを捨てた」
「理瀬は捨ててないだろ」
「でも」
「信じられないとか言ったら殴るぞ」

 じっと河辺と薫は見つめ合う。薫の目からは一筋の涙が流れて落ちた。

「理瀬は捨てない、それだけは信じろ。俺も翠川もお前をいらない子だなんて思ってないよ。いざとなったらなんでもしてやる」
「り、理瀬はずっとそばにいてくれる?」
「ああ、ずっとそばにいる。失いたくないんだろ? じゃあお前もあいつを大切にしないとな。理瀬がお前を大切にするように」

 ***

 理瀬と翠川はアパートにいた。熱のあがる理瀬の汗を翠川は優しく拭う。

「薫、は……?」
「ああ、河辺が追いかけて行ったよ」
「……」
「はは、ごめん余計心配だよねぇ。まぁ大丈夫、河辺も河辺でちょっと強引なだけだから。それよりもね、理瀬くん」
「はい……」
「薫くんだけじゃなく君もきちんと生きなきゃいけないよ。これ以上あの子から身内を失わせるのはあまりにかわいそうなことじゃない?」

 理瀬も薫も家族のいないものどうし、理解できるのはお互いのことで喪失感なんて特に共感できるはずだった。理瀬は黙って目を閉じる。そして寂しかった今までの人生を静かに振り返るのだ。

「幸せになれたらいいと思います、薫も、みんな……」

 ***

 薫は河辺が連れて帰って来た。軽く夕飯を済ませた後河辺と翠川は帰宅してまた薫と理瀬の二人きりの夜を過ごす。理瀬の熱はなかなか下がる様子がなかった。

「薫、寝て。もう、夜遅いから……明日も学校でしょ?」
「おれは……」
「薫?」
「おれは進学とかそういうのよりも、ここにいたい。ここで幸せになりたい」
「ここ?」
「将来よりも、いま家族が欲しい。もう一人ぼっちになるのは嫌なんだよ。一緒にご飯食べて寝て、ただそれだけで良い、そういう家族が欲しいんだ」
「薫……ふ、偶然だね。僕もだよ」

 ***

 朝が来て、薫は理瀬のための朝食を作る。そして家事を終えて着替え学校に行く準備をした。

「理瀬、今日は無理しないで寝てろよ」
「はい」
「夕飯はおれが帰って来てから作るからな。昼はここにあるおかゆ食べて」
「ふふ……はい」
「いってきます!」
「いってらっしゃーい……はは」

 薫は思ったよりもしっかりしている。あの子なら、きっと大丈夫だ。きっとこれから先もちゃんと生きて行ける。理瀬は天井を見て溜息をついた、あとは理瀬自身が出来る限りのことをするだけだ。

「理瀬くーん、具合どう?」

 出勤前の翠川が理瀬の調子を見にやって来た。ふらつきながら応対する理瀬に、コンビニで買ったスポーツドリンクと缶詰を渡す。

「すみません、お世話かけて」
「うん、顔色少し良くなったね。今日はよく寝てまた元気になったら仕事においで」
「あの……僕、薫に救われました」
「救われた?」
「守るべきものに守られてしまった……と言うか」
「はは、それはよかった。理瀬くん、知ってる? それがね、家族って言うものなんだよ」
「家族、そっか……」
「君たちはきっと幸せになれる。いい家族だよ、だから無理しないでゆっくり甘えて、薫くんもそのほうが嬉しいから」

 頼り頼られ共に生きる、そんな家庭を手に入れたこと。理瀬はふうっと下を向く。

「正真正銘、血のつながった家族なんですよね。僕、祖母と別れてからやっと自分の家族を見つけた気がする。いま、泣きそうなくらい嬉しい気持ちでいっぱいです」

(終わり)