よく似た傷痕(サイト限定公開)

 縫うほどたいした傷でもないのに病院に駆け込んで、その挙句に長話をして帰る患者がいる。今日はそんな奴が続いていて、正直閉口していた。でも俺は医者だから、どんな患者でも平等に扱うつもりだ。世間話に相槌打って、一日が終わり夕方、看護師もいない小さな病院。一人院内の掃除をしているとけたたましくすりガラスの向こうで入り口のドアを叩く人影がいた。

「うるせえな、なんだよ。はいはい今開けますよ」

 診察時間は終わったが、時折急患が来ることがある。救急の診察は基本していないが、来てしまったものは仕方がない。

「凪彦!」
「なに、香人かよ。こんな時間になんのようだ?」

 あの清月香人が青ざめた顔をして必死に肩を抱き抱えながら歩いて来たのは、同居人のことりだった。戸惑った顔をしたことり、しかしその腕を見て俺も思わず言葉が詰まる。

「な……んだよ、これ」

 ことりの上着のシャツの左腕は真っ赤に染まって、止血のために巻きつけられたであろう血濡れのタオルからまだ血が止まっていないのか、ポタポタと血液が滴っている。出血は見ただけで多いのがわかるし、香人の動揺も理解はできた。

「授業が終わって、掃除をしていたら鏡が割れて、その上でつまずいたことりの腕に刺さった、それで、血が、ずっととまらなくて……凪彦!」
「香人、お前はおちつけ。これはでかい血管切れたかもしれないな……来い、ことり」
「あの、ごめんなさい凪彦さん。診察時間は終わってるんですよね?」
「ばかたれ、診察時間終わってるからってこんな傷そのまま帰すわけねえだろ! 処置するから、急げことり」

 ことりの顔は心なしか青ざめている。痛みもあるだろうし、出血量も気になる。シャツだけでなく履いているデニムにもべったりと染みた血だらけのことりの肩を抱く。

「凪彦……」
「お前は待ってろ、香人。そんな慌てた顔するなよ。ことりが怯えるだろうが」

 ***

 気づけばすっかり夜になっていた。傷は大きく深かったがなんとか縫って止血した。しかしそれまでの出血量が多かったかもしれない。処置を終えことりを休ませ、香人のところに戻れば未だ動揺し慌てて駆け寄ってくる。

「ことりは……!」
「落ち着けって、なんとか血は止まったよ。でも出血が少し多かったのが心配だからしばらくゆっくりしてけ。薬切れたら痛みもあるだろう、お前今夜仕事はあるのか?」
「仕事なんかどうでもいい! ことりは大丈夫なのか?」
「傷が思ったより深かったから熱でも出すかもしれないな、ここ数日の痛み止めとか処方箋書いたから薬局でお前薬もらって来い。この時間でもやってる薬局が近所にあるから」
「わかった、すぐ行ってくる」

 そう言って香人は病院を駆け出して行った。しかしあの男がここまで慌てるのも珍しい。

「あの……」

 慌てた香人を見送ると処置室から戸惑ったことりがふらふらとやって来た。血だらけの服ですっかり困った顔をしている。

「おい、お前はゆっくりしてろよ。冷や汗でてないか、くらくらするか?」
「少し、ふわふわした感じがします。でも、もう痛くないし」
「麻酔が効いてるの。顔色悪いな、少しそこの椅子に横になって、ほら大丈夫か? 脈測らせろ」
「大丈夫です、僕……それより先生は」
「悪いなぁ、あいつすっかり慌ててさ。普段から病気も怪我もしないやつだし驚いたんだろ」
「僕、先生に悪いことしちゃったな……」
「事故だよ、誰も悪くない。それより着替えるか、血でベタベタして気持ち悪いだろ?」

 二階の自室に行き、シャツとスウェットパンツを持ってくる。薄暗い廊下でことりの汚れたシャツのボタンを外せばあまりに痩せた胸があらわになる。

「お前はまたこんなに痩せてなぁ」
「痩せてないですよ」
「どこが、痩せすぎだよ。体調良くないだろ? 身体のためにももう少し食事しないとな」
「……はい」

 気まずい顔してことりはうなずいた。執拗に太ることを気にしてあまり食べない、その心の闇の方もどうにかしたいところではあるが、今日はそれどころではなかった。しかし俺の服は流石に大きく、ボタンを閉めてもぶかぶかだった。でもこう言う事情だから今日は仕方がない。傷は硬く包帯で固定し、だが、しばらくは少し不自由だろう。

「薬、もらって来たぞ」

 息を切らした香人が帰ってくる。見れば香人の服も血まみれでもう一着、着替えをとりに行こうとしたその時だ。

「……ことり!」

 香人の胸で意識を失ったことりが抱えられていた。普段から貧血がひどくよく倒れているところにこの傷だ。出血が負担になったかもしれない。慌てて抱き寄せて呼吸を確認し血圧を測る。

「ことり! ことり!」
「落ち着け香人。血圧は大丈夫だ、正常に息してる、心臓もちゃんと動いてるしそんな声出すな。おい、ことりわかるか!」
「……せんせ、あれ……?」
「ことり!」
「少し横になっていろな、香人は付き添え。ことりが意識なくさないように話しかけてろ」

 全くとんだ一日だ。俺はことりの心配をしながら諸々の準備に駆け回る。

 ***

 翌日、ことりの様子を見がてら香人の家に行った。香人は黙々と家事をこなしていてことりの姿はない。

「凪彦」
「ことりどうした、熱でも出したか?」
「いや、でも食欲がない」
「そっか、ちょっと診察するかな。出来るだけ飯は食わせたほうがいいんだけど……なんだよ、元気ねえなお前」
「……俺が気をつけていたらことりは怪我をしなかった」
「自己嫌悪か、香人のくせに」
「ことりの腕はちゃんと治るのか?」
「診てみないとわからないが、最善は尽くすよ」
「凪彦」
「こら、情けない顔すんな」

 ことりは部屋で横になっていた。傷は綺麗なもので腫れてもいないし化膿もしていない。ただ、少し疲れているのか長いため息をつく。

「どうした、痛むのか?」
「いえ、少し疲れちゃって……昨日は先生にも悪いことをしました。僕がうっかりしてなければこんなことには」
「……なんだよ、似たもの同士か」

 同じようなことを言っている二人に思わず笑ってしまう。同じことで落ち込んで、すっかり後悔と自己嫌悪を繰り返している。

「凪彦さん?」
「悪いと思うなら元気な顔を見せてやれよ、香人も悩んでるみたいだしさ」
「悩んで……? 先生は悪くないですよ!」
「それ聞いたら安心するぞ、あいつ」

 ことりは起き上がり身なりを整える。そしてゆっくり立ち上がって香人のところに行った。出来てしまった傷は仕方がないものだとして、似たもの同士、お互いに思い合っているのならそれに越したことはない。俺は荷物を片付けてしばしここから二人の様子を観察することにする。