青ざめた夜は明けない

 朝からなんなくことりの顔色が悪いのは気がついていたが、いつも通りの働き方につい見逃してしまった。授業終わり、あまりに息切れすることりに触れて、見逃していた自分に後悔をする。

「ことり、おいで」

 青白い顔色は冷や汗がひどく、歩くのもままならないくらいだった。日々の疲れが響いていたのだろうか、やがてその場に座り込んでしまう。大丈夫を繰り返すがもう立てないから、慌てて抱き上げて部屋まで運ぶ。そうしてベッドに寝かせればしきりに襟元を苦しそうに触れている。

「ことり?」
「息苦しいです……」
「大丈夫か?」

 薄く開いた目は涙ぐんで、目の下が黒ずんでいる。そんなに具合が悪いのを我慢していたのか、気がついた時点で声をかけてやればよかった。

「水でも持ってこようか」
「い、いい……いらない……」
「ことり」

 朝食は珍しく食べたが、それも十分な量とは言えない。食べられない日が続いていて、ようやく調子が良くなって来たところだったのに。胸元のボタンを外してやって、タオルでひどい汗を拭う。多少熱がある気がする、先日買ったばかりの体温計を持って来て服の中に入れれば、ことりは拒否するように寝返りを打った。

「ない、熱はないです」
「熱いぞ、測るだけ測ってみないか」
「先生……」

 そうして測ってみれば思ったより高い熱が出ていた。ことりは気まずそうに、そして黙って俯いた。

「まいったな、とりあえず冷やすものを持ってこようか」
「せ、先生……僕は大丈夫なのでお仕事してください」
「仕事は後でするよ、気を遣っているのか?」
「だって今月、忙しいでしょう?」
「俺の仕事を気にしていたのか、お前の体調の方が大事だろう。熱が高い、とにかく休まないとな」

 気を遣う性格なのは最近気がついたことだ。ことりは自分の体調よりも俺の仕事の予定なんか気にして。そんなこと気にしていられるほど、具合は良くなさそうだった。小さく震えて、速い呼吸で時折ため息をつく。よほど気分が悪いのだろうか、そっとその背中に触れた時玄関のインターフォンが鳴った。

「こんばんはー、飯食おうぜ」
「凪彦、悪いが今夜はダメだ。帰れ」
「なんだよ、せっかく遊びに来てやったのに」
「ことりが……」
「ことり? どうした、調子悪いのか」

 入って良いとも言っていないのに凪彦は勝手に室内に上がって来た。そしてことりの部屋に向かう。

「ことり、大丈夫か?」
「な、凪彦さん……!」 

 今にも泣きそうなことりのその表情で何かを察した凪彦は俺に向かって袋を持ってくるように言う。

「袋? なんで……」
「良いから持ってこいよ! はやく!」

 ビニール袋を渡すとすぐに凪彦はことりの口にあてがった。ことりはそのままひどくくるしげに嘔吐する。突然のことに何も言えない俺は、ただ黙って立ち尽くすしかなかった。

「苦しかったな、ことり。落ち着いたか?」
「はい……ごめんなさい……」
「お前が謝る必要はないの、気持ち悪いって香人に言えなかったのか?」
「……」

 唖然としたままの俺を放って凪彦は袋の処理をして、汗ばんだことりの肌を拭う。そっとその長い髪を撫でればことりは大人しくため息をついて目を閉じた。

「鈍感なんだよ」
「……悪いとは思ってる」
「ことりが言う前に察してやれ、そばにいるのはお前なんだから」

 その言葉が全てだ、結局のところ一番そばにいるのは俺で……。

 ***

 凪彦は俺の部屋で勝手に寝ている。俺はことりのそばに寄り添い、眠れない夜を迎えていた。ことりの熱は下がらずに速い呼吸を繰り返している。

「せんせ……もう寝てください。僕は大丈夫ですから」
「いいよ、俺のことは気にするな。何か欲しいものはないか? 着替えるか」
「着替えは自分でできます……」
「眠るまでそばにいるよ」

 それでもしばらくことりは眠れないようだった。俺はそんなことりに触れて、熱い額の汗を拭う。

「先生……昔話をしても良いですか」
「なんだい、いきなり」
「幼い頃の夢を見て、思い出してしまって。楽しい夢ではないんですが」
「言ってごらん」

 ことりはそれでも少し躊躇して、そしてポツリと語り始めた。

「僕、幼い頃写真モデルの真似事をしてて、地元で広告の写真に使われたりしてたんです。小さな子供だったら誰でもよかった、きっとそんな類のことなんですが」

 ことりの表情は夢を見るよう。でも微笑んでいるわけではない。

「月日が経つごとに子供は大きくなるじゃないですか、成長期ってあるでしょう? そんな僕を母が叱るんです。太って醜いって、少しずつ大きくなるこの身体を否定するように……その頃から僕はうまく食事ができなくなりました。食べたら大きくなっちゃうでしょう?」
「それは……ことり」
「母は次第に僕に飽きてしまって、そのまま家を出て行ってしまいました。仕事人間だった父のこともきっと嫌いだったのでしょう。ことりも思うようにならなくて、ただ憎くて仕方なかった」

 震える手は空をかくように揺れる。そしてことりは目を閉じた。

「写真の仕事はそれで終わり。ことりはそれからひとりぼっちの何もできない子供になりました。学校でも孤立しがちで、結局食べられないからやがて入院して。病院は僕を強いるばかりで楽しい場所じゃありません、でも痩せてる間は、僕はまだ」
「……」
「ううん……おしまいです、こんな話してごめんなさい。何言ってるんだろ、ことりは……」

 苦笑した顔は痛みを堪えていた。ことりが今でもその傷を抱えているのはその痩せた身体をみればわかる。苦しいのか、ことり。

「ことり」
「すみません、寝てください」
「俺はお前を否定しない、食べて、良いんだぞ」
「……先生は優しいですね」

 いくら言っても俺の言葉はきっとそんなに届くものではないのだろう。ずっと辛かったことりの些細な月日しか共有していない。俺に何ができる? ことりは別に慰めてほしいわけじゃないんだ。
 そっとことりのそばを離れて俺は一人窓の外を見る。空はまだ明けない、一面の闇は、ことりの心も癒されないままで……。