距離と心模様

「久しぶりの同窓会でね、もう十年にもなる」

 そう言って清月先生は遠く懐かしい顔をした。僕は笑顔で聞いているつもり、でも、本当にうまく笑えていたかはわからない。

「明後日帰るよ、デッサン教室は休みにしたから」
「はい」
「しかし、泊まりは久しぶりだからなんだか落ち着かないよ」

 じゃあ出かけないでそばにいてください、先生。

 ***

 先生は大きな荷物を抱えて出かけて行った。楽しそうなのはその柔らかな表情でわかる。何かと表情に出づらい人だから、よっぽど楽しみなのだろう。でも、先生には友達がいるかもしれないけれど僕には先生しかいないのに。
 幾度ひきとめようとしたか、でもそんなのわがままだってわかっていた。

「あれ、香人いないの? なんで」

 夜になり、凪彦さんがやって来た。暇つぶしに一緒に夕食を食べようって、でも先生はいないからと断ろうとした。すると彼は帰らずにそのまま室内に入ってくる。

「あの、凪彦さん?」
「ことり一人じゃ寂しいだろ、そもそもお前、飯食うつもりあるのか? 一人だからっていつも以上に飯を疎かにするつもりじゃないだろうな」
「……べつに、そんなに食欲もないし」
「あ、お前なあ、そういうの良くないぞ。自己管理ってわかるか?」
「わ、わかりますよ子どもじゃないし。自分のことくらい自分でします!」
「じゃあ少し休んでろ」
「え……?」

 僕にそう言った凪彦さんはそっとその手で僕の頬に触れた。

「血の気ない顔してる、体調悪いんじゃないのか?」
「……先生は何も言ってませんでしたよ」
「あいつは浮かれてあてにならなかったろ、こんなに体調悪そうなお前放ってわざわざ出かけるなんてなあ」

 自覚はない、だけど自分を疎かにしているのはたしかだった。先生も見なかった僕はいらない、無意識にそんなことを思ってた気がする。足元が揺れている気がする、くらくらとする視界に、それは僕自身が揺れていることだって気がついた。

「ことり?」
「な、なんでも……」
「ことり、こっちこい。貧血か?」
「わからないです、なんだか、気持ち悪い……」
「ことり!」

 床に倒れて意識を失っていたのはほんの数分のことだったと思う。真っ暗になった視界に凪彦さんの声がした。

「ことり、わかるか? 身体持ち上げるぞ」

 温かい凪彦さんの腕、重力を感じないまま、身体は凪彦さんが抱き上げてくれてベッドまで。僕は酷く眩暈がして動けなくなっていた。

「なぎひこさ……」
「ああ、いい、気をつかうな。目を閉じとけ、吐き気はないか?」
「寒い……少し、気持ち悪いです」
「相変わらず軽い身体だな、いい加減体調悪い時は誰かに頼ることを覚えないと。お前我慢するだろ? それよくないんだぞ」

 そんなこと言ったって、頼れる先生は出かけてしまった。僕の体調が悪くても先生は予定があるのだから……。

「ことり」
「はい……?」
「香人に気をつかったのか? あいついわないとわからないからな、だからってお前だけが辛い思いしなきゃならないなんてことはないんだぞ」
「……」
「おい、大丈夫か? ことり、しっかりしろよ」

 凪彦さんの言葉はちゃんと聞こえていた。でも、先生の楽しみを奪うような迷惑な僕はいらない。

 ***

「ことりー、ほらお茶でも飲んどけ。脱水になる、身体も冷たいぞ」
「大丈夫です……」
「手の色もくちびるの色も悪いな、全く、いまさら無理も遠慮もいらないだろ。こっちに来い、温めてやる」
「凪彦さん……?」

 凪彦さんはベッドに腰掛け僕を膝に寝かせて、大きな手で僕の冷たい指先を握る。温かい手、でも先生のように硬い指はしていなかった。それがどこか寂しく、余計に気分は落ち込んで行く。

「お前、明日暇か?」
「え……用事はないです……けど」
「出かけるか、紹介したいやつが一人いるんだ」

 ***

 凪彦さんに手を引かれて、僕は翌日近所の自然公園まで行った。僕の体調を気にして、凪彦さんはすぐにベンチに座らせる。そしてしばらくすると一人の背の高い笑顔の男性を連れて来た。

「あの……?」
「湯島だよ、ことり」
「こんにちは、湯島颯樹(ゆしまさつき)です。君がことりちゃん? 本堂から話は聞いてるよ」

 なんて優しそう、彼に悪意は感じられなかった。なんでも凪彦さんの同級生で、彼もお医者さんをしていると言う。お友達というには凪彦さんも湯島さんも年上だが、すごく穏やかににこにこしている。

「体調は大丈夫? 少し顔色悪いね、無理しないでいいんだよ。本堂の病院に帰ろうか?」
「え、そんな……」
「ことり、昼は病院で出前でもとるか? 公園もいいがお前また倒れそうな顔してるからなあ、何か飲んだら帰るか」

 そう言って凪彦さんは温かいココアを買って来てくれた。冷えた身体に染み渡る、でもこんなに甘い飲み物は、太るんじゃないだろうか。

「ことりちゃん、ココア嫌い?」
「いえ、好きです。でもなんだか太ってしまいそうで」
「太るって……十分痩せているように見えるよ。心配なくらいに」
「太った僕は、醜いです」
「ことりちゃん」

 湯島さんは少し戸惑った顔をしている。僕の闇が見えたのだろうか、でも、僕は先生に捨てられたくないから、必要以上の栄養はいらない。

「……ことりちゃんは何が怖いの」
「え?」
「そんなに怯えなくていいんだよ、誰も君を嫌ったりしない」
「湯島さん……でも」

 でも、そんなの、わからないじゃないか。嫌われることだってあるかもしれない。そもそも僕に価値なんてないのだから。

「……ことりちゃんはもっと自分を好きになったほうがいいね」

 湯島さんの言葉、彼は僕の何を知っているというのだろう。

 ***

「ことり、もう少しの我慢だぞ。そろそろ着くからなぁ」
「ことりちゃん、大丈夫かい?」

 せっかくもらったココアを全て吐き戻してしまった。急に気持ち悪くなってトイレに駆け込んで吐き続けてしばらく動けなくなってしまった僕を二人は心配して、公園側でタクシーを拾う。まだ気持ち悪い、ココアは空腹に飲むには向いていなかったのかもしれない。でも、優しい言葉をかけてくれる二人に僕は何も言えなくて……。

「お前は少し休んだ方がいいな、栄養がどうしてもとれないんじゃ身体に良くない」
「本堂、ことりちゃん昨日の食事は? ちゃんと何か食べたの?」
「少量食べたくらいか? 貧血で倒れて、それからは食べてないよな」
「貧血って……」

 湯島さんは深刻な顔をする。僕はただうつむいて、じっと吐き気を堪えていた。温まった手はまたすっかり冷えて、季節をもう無視している。その手をそっと湯島さんが触れて、優しく背中を撫でてくれる。

「もう少しの我慢だよ、あと五分もしないうちにつくからね」
「迷惑かけて、ごめんなさ……っ」
「迷惑じゃないよ、気にしないで」

 ***

 凪彦さんの病院について、僕は空いているベッドに寝かされた。気持ち悪かったら吐いてもいいとは言われたけれどそれもそれで綺麗なものではないから必死で耐えて、じっと目を閉じている。

「あの子は思ったより重症だね」
「まあ、変なところ気にするからな。しかし飲み物もとれないであの様子だと身体が心配なんだよ」
「ちょっと痩せすぎかな……でも、本人はそうは思ってないみたいだけど」
「自覚がないのが困る、最近は見るたび痩せて行ってる気がして」

 部屋では二人の言葉が聞こえる。しかし言葉の意味まで考えられないほど、僕は朦朧としていた。先生、はやく先生に会いたい。でも、今夜もまだ帰っては来ないから……。

「ことり、香人呼ぶか?」
「え……」
「あいつ帰って来たら多少は食欲も出てくるだろ? このままお前が弱ってくのを見てるのも辛いんだよ。いいだろ、香人なんか遊びに行っただけなんだから」
「い、いいです! 大丈夫だからやめてくださいっ、せ、先生の迷惑になりたくない……ことり、嫌われちゃいます」
「嫌うかよ、香人にとってお前は十分大切なやつなんだよ」
「嘘だ……僕はお荷物です。先生が優しいから拾ってそばにおいてくれてるだけで」
「ことり」
「いまは先生がモデルや手伝いに使ってくれるから、僕は多少の役に立ててるだけなんです。モデルにすらなれなくなったら、僕はもうどこに行ったらいいのか……」

 せめて、の価値だ。優しい先生が僕を必要としてくれる理由。なのに、引き戻したりしたら嫌われてそもそもの価値がなくなってしまう。何にも使ってもらえない。どうか、いらないって言わないで。先生の気まぐれでもいい、そばにおいてもらえる間は僕は些細な幸せをかんじられるから。
 
「卑屈だなあ、お前」
「……なんと言ってもらっても構いません」
「そうかよもう、じゃあ勝手にしろ!」

 そう言って凪彦さんは部屋から出て行ってしまった。ドアの閉まる音に涙が溢れる。嫌われた、僕は誰にとってもいらない存在なのかもしれない。出かけてしまった先生に、怒った凪彦さん。絶望の中泣いていると次第に吐き気も増して来た。どうしよう、本当に吐いてしまう。その時それまで黙って部屋に残っていた湯島さんが動いた。その手にはビニール袋を持って。

「ことりちゃん!」
「ゆ、湯島、さん……」
「気持ち悪いんだろう? いいよ、この袋に吐いてしまいなさい」
「い、いや、……っ」
「我慢してても辛いだけだから、僕だって医者だからね。慣れてるんだよ、大丈夫」

 ***

 吐いてしばらく横になっていたら、気分は少し落ち着いて来た。湯島さんは黙って僕に付き添ってくれて、優しく背中をさすってくれる。

「汗ひどいね、まだ気持ち悪い?」
「だいじょうぶ……」
「本堂も感情的になっていただけで君を嫌ったわけじゃないよ。思い詰めないように、君は悪くないんだから」
「湯島さん……」
「それより落ち着いたら何か口にしないとね、顔色真っ青だよ。栄養とらないと」
「何も食べたくないんです」
「そっか、でもねえ……」

 湯島さんは困った顔をして、とりあえずは少し眠るように言った。僕もなんだか疲れてしまって、彼の言うまま目を閉じる。浅い眠りの中で見た夢は先生がデッサンしている時の風景だった。じっとモデルの僕を見て、優しい顔して鉛筆を動かす。ああ、この時だけが僕の価値を感じられる時間。先生の役に立ててるのだろうか……。

「ことり」

 夢の続きかと思った、その声は紛れもなく先生の声。静かに目を開けると、僕の顔を見つめている人。

「え、どうして……」
「凪彦からお前が倒れたって聞いて」
「だって、帰るのは明日……」
「慌てて帰って来たんだよ。体調が悪いならそもそも家を空けなかったし、なにかあったらすぐに帰ってくるつもりだったんだ。そう言うことはちゃんと言わないと」

 慌てた顔した先生がいた。荷物を持って、髪を乱して。側では凪彦さんと湯島さんが穏やかに微笑んでいる。僕は震えて涙を流した。
 窓の外はもう夜になっている。それでも先生は急いで帰って来たのだろう。

「何か食べられるか? 昨日から食べてないんだろう、聞いたぞ」
「ご、ごめんなさい先生……」
「謝る必要はないよ、俺も悪かったな、お前が辛いのも知らないで」

 ***

 別室では先生たちが食事をしている。僕はお粥を少しだけもらって、再びベッドに。吐き気は治り、ただ起き上がるとくらくらと眩暈がするのでまだ横になっている。そこへ湯島さんがやって来た。

「ことりちゃん」
「湯島さん……」
「気分はどう?」
「少し楽になりました、起き上がるのはちょっと辛いけど……」
「ゆっくり横になっていなさい、よかったね、清月さん帰って来て」
「……複雑な気分です。先生の楽しみを奪ってしまったみたいで」

 楽しみに出かけて行った先生、その楽しみを僕が台無しにしてしまった。僕がそう言うと湯島さんは違うよ、と笑う。

「清月さんにとって君は君自身が思っているより大切な存在なんだよ。だからあんなに慌てて帰ってきたんだし。ことりちゃんは、ちゃんと自分には価値がある、そう思わないとね」
「価値、あるのかな……ことりなにも出来ないのに」
「人は損得だけで動いているわけじゃないよ。それ以上に心を動かす感情はいつだってある」
「ことりにも?」
「もちろん、僕だってことりちゃんが好きだよ。もっと仲良くなりたいって思う」
「こんな僕でいいんですか?」
「いい友達になれると思うけどね」

 みんな優しい。こんな僕を見捨てないでいてくれる。目を閉じれば穏やかな気持ちの中ゆっくりと眠れそうな気がした。

「おやすみ、ことりちゃん」

 湯島さんが静かにドアを閉める。僕は半ば夢の中、温かい心で眠りについた。