横たわる人形

 清月先生のデッサン教室は小学生から年配の人までいろんな人が通っている。画家を目指している人から趣味でじっくりと楽しみたい人まで。その中で僕は異質だった。

「ことり先生!」
「えっ、こ、ことりは先生じゃありませんよ?」

 生徒の一人、小学生の女の子は不思議そうな顔をする。確かにこの教室で僕は生徒ではなかったし、でもだからと言って先生だなんておこがましい。だって僕は上手な絵の描き方も知らないのに。

「りんごの描き方がわからないの」
「ああ、りんごは難しいですよねぇ。ううん、光の当たり方とかよく見てみたらいいんじゃあないのかな……その、わからないけど」
「ことり先生はりんご好き?」
「好きですよ、良い香りがします」
「私も好き! 美味しいもん」

 にこり、と笑う笑顔が可愛い。先生は離れたところからこちらをみて微笑んでいた。優しい先生が好きだ、僕を見守るその目があまりに穏やかで。

「時間になったから描き終わってない人も提出してくださーい、先生からアドバイスを一人ずつ行います!」

 僕はそう言って一枚ずつ作品を受け取っていた。その中で今回のモチーフではない絵を描いてきた人がいる。一人の青年、これは……。

「りんごじゃない……ですよね」
「ことり先生だよ、俺が描いたの」

 高校一年生、水島秋くん。学校は不登校で昼間からよくデッサン教室に顔を出していた。

「え、えっと……」
「好きなものを描いたんだ、綺麗にかけたでしょう?」
「あ、ああ……上手な絵だと思います、でも」
「ことり先生、痩せてて綺麗だから」

 そう言って水島くんは去って行った。僕にこの絵を預けて先生からのアドバイスを聞く前に帰ってしまおうとする。

「ちょっと、まだ……」
「その絵あげる、ことり先生の好きにして。ねぇ、今度連絡先教えてよ」
「ことりは携帯持ってません……」
「ほんと、めずらしいね? じゃあまた教室来るから、ことり先生に会いに」
「ま、待って!」

 水島くんは帰ってしまった。彼が僕に何の感情を持っているというのか……先生は気が付いていない。僕は水島くんの絵を持ってその場に立ち尽くすしかなかった。

 ***

「ことり、食事が進まないな」
「その、なんだかおなかいっぱいで……」
「半分も食べていないじゃないか、もう少し食べなさい」
「うう」

 わざとじゃなく本当にお腹がいっぱいになってしまって、つい箸が止まってしまう。今夜は先生が作ってくれた焼き魚と煮物。煮物半分だけでももう僕はお腹がいっぱいで苦しかった。

「む、無理です、先生残り食べて下さい」
「……明日の朝食はきちんと食べるんだぞ?」
「頑張ってみます……」

 そして先生に残った煮物と焼き魚を食べてもらって、僕の夕食は終了する。それでもこの頃では以前より食事の量は増えたんだ。先生があまりに心配するから。僕自身はと言うと本当はあまり食べたくなかった、無駄に肉がついてしまうことで醜くなってしまう自分を見るのが怖い。他人がそれほどに僕の体型なんか見ていないのは知っている、けれど一度限界まで行ってしまったこの肉体と感情はあれから悪いほうにしか成長していないようで。中学時代、拒食の彼方まで行ってしまったあの頃に戻りたいと思っているのか、太ってしまうことが許せない。
 先生、どうか嫌いにならないで。醜く変わってしまった僕を見たらきっと嫌われてしまうから。それが僕の心の中でずっと恐ろしくてたまらないことだった。

「ことり、明日は凪彦と食事をしよう」
「えっ……しょ、食事ですか」

 夕食後の皿を洗っていると先生にそう声をかけられた。ただでさえ今夜の食事に関して食べすぎだったのではないかと後悔していたところだった。それを、明日も? 考えただけで、ぞっとする。

「嫌か?」
「い、いえ……凪彦さんは嫌いじゃありません」
「お前ももっと食事をしないといけないよ、こんなに痩せてしまって」
「今日はたくさん食べましたよ……」
「いや、足りてない」

 そう言って先生は後ろから僕を抱きしめた。たくましい身体が僕を包む。先生はぽつりと、全身の骨の感触がする、と呟いた。

「……ことり、また今夜絵を描かせてくれるか?」
「こんな僕で良いんですか?」
「お前だから描きたいんだよ」

 ああ、ぎりぎりで首がつながった気分。まだ僕の身体は醜くなりきってはいませんか、先生。

 ***

 夜からの食事の前に今日もデッサン教室があった。僕は食事のことが気になってしまってどこかうわの空。先生はそんな僕に気がついてはいなかった。

「ことり先生、なんか悩みでもあるの?」
「え……」

 授業中に声をかけて来たのは件の水島くん。彼はもしかしたら僕のことを先生よりよく見ている。

「いえ、悩みと言うほどのことではないです」
「でも何か気になっているんだ?」
「な、なんでもないですよ……絵を描いてください。先生が待っていますから」
「課題はもう終わった、ことり先生描いてもいい?」
「ことりは絵にするほどの綺麗なものじゃないです」
「綺麗だよ、ことり先生は綺麗だ」

 なぜこの子はこんなに僕にこだわるのだろう。僕は本当にそんな綺麗なものではないのに。水島くんが少し怖くなって、さりげなく倉庫のほうに逃げる。すると彼はそんな僕を追って来た。

「ちょ、倉庫は生徒立ち入り禁止ですよ!」
「ことり先生」

 その瞬間、壁に身体を押し付けられた。水島くんの手は先生ほどではなくとも力強く、僕は身動きが取れない。そして彼は僕の首筋に口をつける。

「や! やめ、やめて……!」
「人形みたいだ、デッサンのモデルみたいな。ことり先生の身体は細くて今にも折れちゃいそうだね」
「水島くん……ッ」
「ことり先生は何が怖いの?」
「え」
「なにか怖いことがあるんでしょう? いつもどこか怯えた顔して」

 怖いこと、僕の、ことりの怖いことは……。

「……何をやってるんだ」

 その時、倉庫の中を覗いた、大きな影。水島くんは舌打ちし、バツの悪そうな顔をする。

「せんせい……」

 ***

 授業が終わり、教室を片付けている。
 先生かあれから僕を見てくれないで、口もきこうとはしなかった。もうすぐ凪彦さんとの約束の時間。駅前で待ち合わせ、教室の掃除を終えて先生をうかがうと僕の目を見ずに教室から出るように促す。

「せ、先生……」
「何をそんなに怯えた顔をして、やましいことがないならそんな顔する必要ないだろうが」
「や、やましいこと……? そんな、ない、ないですよ先生!」
「じゃあ堂々としていろよ」

 その言葉の強さに僕の心は震えていた。先生に嫌われてしまう、水島くんとは本当に何もなくって、僕にとって大切なのは先生のこと。それは伝わらないのだろうか。

「よう、早いなぁ」

 駅前で少し待ったところで凪彦さんが現れた。先生はぷい、と先に行ってしまう。

「待てよ香人、何だよ感じ悪いの。なにかあったのか? ことり」
「な、凪彦さん……僕が悪いんです」
「なにが? 勝手に香人がへそ曲げてんだろ、そんな顔するなよ」
「でも、ぼ、僕が」

 水島くんに隙を見せてしまった。そのことをきっと先生は怒っているのだ。考えれば考えるほど、僕の心は締め付けられて次第に息がしづらくなった。でも、僕は先生に謝らないと……。

「おい、ことり。大丈夫かよ。顔真っ青じゃないか、少し座るか?」
「……ぼくが、わるいんです……先生は悪くない……」
「ことり!」

 瞬間、ざっと血の気が引き、その場に足から崩れ落ちる。慌てた凪彦さんの向こうには先生の大きな背中が見えた。

 ***

「ことり、何か飲むか?」
「……いい、いらない……吐き気が、ひどくて……」
「相変わらずだなぁ、それにしても全く香人は」

 それから数日、僕は凪彦さんのもとにいた。意識を失った僕を見ても先生は何も言わず、僕はあの日以来何も食べるどころか飲むことすら出来なくなってしまった。それを凪彦さんが困っている。

「せめて水分とることが出来るようになるまでは帰れないな、まぁ香人のあの調子じゃ帰したくないのが本音だよ。一体、なにすねてんだか、あいつ」
「……」

 目の前がぼんやりとぼやけ気が遠くなる。息苦しい、今朝は目が覚めた時から吐き気と寒気がとまらなくて、それを凪彦さんに訴えると彼は体温計を持ってやって来た。

「少し熱ありそうだから測ってみろ。あまりに何も飲めないのならちょっと考えるけど」
「て、点滴とか、注射は嫌です……なにも、入れたくない」
「そうはいかないの、干からびるぞ。身体に悪いんだからな」

 体温計が鳴り、凪彦さんが服の中から取り出すと体温表示を見た彼は眉をひそめた。そして僕の額を撫でる。

「少しどころじゃないな、しっかり熱あるよ。冷やそうか」
「凪彦さん、病院のほうは放っておいて良いんですか……」
「後で行くよ、でも、ことりのほうが重症」
「僕、平気です」
「平気と大丈夫は違うんだよ、いいか横になってるんだぞ。ちょっと待ってろ」

 そう言って凪彦さんは診察室のほうに行ってしまった。熱のある実感はなかったけれど、凪彦さんが言うのならきっと熱はあるのだろう。依然、動けない身体に溜息をつく。少しでも動くと吐き気がするから、僕は横わっていることしか出来なかった。
 デッサン教室のほうは大丈夫だろうか。僕がいないと先生は掃除をしたり雑用を一人でこなさなければならない。絵を描く時間がなくなってしまって、仕事に支障があったら申し訳ないなと思う。
 今まで雑用くらいしかこなせなかった僕を、しかも住み込みで置いてくれた人。しかし行く当てがない僕はこれからどこに行ったらいいのか……いつまでも凪彦さんのもとにいるわけにもいかない。
 熱が上がって来たのか身体がブルブルと震えていた。寒い、でも、これからどうしよう、あたり一面闇の中で意識はゆっくり落ちて行く。

 ***

「……結局お前は嫉妬したんだろう? 情けないな、やつあたり」
「別に、そういうわけじゃ」
「そういうわけだろうが、生徒に手を出されて何も言えないのはお前のほうじゃないか。俺のものに手を出すな、そう言うくらいの度胸はなかったのか」
「うるさいな」

 凪彦さんの家で目を覚まし気が付けば聞き覚えのある声がつい傍から聞こえていた。いるわけのない人、でも今日は確か教室は休みだった気がする。

「謝るんだな、とにかく」
「……わかっているよ」
「わかってたらこんなひどい目にあわせない。あ、目が覚めたのか、ことり」

 熱でぼんやりとした頭で目を覚ませば凪彦さんの隣にいたのは先生だった。どこか気まずい顔をして、じっと僕を見つめている。

「先生……」
「ことり、その」
「その、じゃないだろ、香人。悪かったってさ、ことり」
「凪彦さん……? 先生が、何で」
「……ことり、お前が嫌じゃなければ帰ろう。また一緒に暮らしてくれないか?」

 先生は神妙な顔をしてじっと僕を見つめていた。僕は何も言葉にならなくて、ただ一筋の涙を流す。泣くなんて情けないな、でも先生は何とも言えない顔をしてこちらを見つめていた。あの先生が、どこか僕と一緒にいまにも泣きそうな顔をして。

「帰ってもいいんですか、僕が」
「ああ、あの家はもうお前の家だから」
「先生は嫌じゃないんですか」
「嫌だったら迎えになんか来ないよ」

 迎えに来てくれた、先生が。僕はなんて言ったらいいのかわからなくて、戸惑い、そしてただだまって頭を下げた。

 ***

 外はすっかり雨が降っていた。まだ熱の残る僕の肩を寄せて、先生は傘を差す。

「おいで、ことり。雨に濡れると熱が上がる」
「でも僕汗くさいですよ」
「おいで」

 触れた先生の手はやっぱり大きくてたくましくて、僕は思わず震えてしまう。怖いからじゃない、その体温が伝わるのがただ嬉しかったからだ。

「先生、ぼ、僕は先生のことが……」

 そのあとはもう、ただ言葉にはならなかった。