高熱を下げる水

 早朝、食堂に行けばもうことりが目を覚まして椅子に腰かけている。朝食でも食べたのかと思えば目の前に置いてあるのはコップの中の一杯の水だけで、台所は使った様子もない。うつむき加減のその顔は青ざめて、白く、闇に透けたろうそくのようでもあった。ふっくらとしたくちびるまで色もなく紫がかっている。

「……ことり」
「あ、先生おはようございます。お早いですね」
「あ、ああ。昨日は早く眠ったから、つい目が覚めてしまって。仕方がないから仕事でもしようかと思ってもう起きることにしたんだ」
「お忙しい、コーヒーでもいれましょうか?」
「いや、……ああ頼むよ。お前はもう食事は食べたのかい?」
「はい、いただきました」

 嘘だ、それは嘘だ。そんな体調の悪そうな顔をして、食事なんてしたわけがない。ここ最近のことりはろくに食事もしなくて、日々痩せ顔色も悪い。困ったな、とは思っているがどうしたら良いのかわからない。しかし先日も貧血で倒れたばかりでその身体が限界に近付いているのは俺だって気が付いていた。せめて何か食べさせないと、しかし嫌がるものを無理矢理なんて難しい。
 ゆっくりと立ち上がった背中がふらついた、慌ててそばによりその肩を支えるとことりは苦笑し大丈夫だと言う。つかんだ肩は骨ばって、柔らかな皮膚の感触すら失われている。

「ことり、コーヒーは良いよ。横になっていなさい」
「いやだ、先生、そんな病人を扱うみたいに」
「顔色が悪いよ、本当はまだ何も食べていないんだろう? 無理をしないで、何か朝食を作るからそれまでゆっくりして」

 朝食、その言葉にことりはごくりと息を飲んだ。言いたげなくちびるは躊躇し、震え、そしてしぼりだすように小さな声を出す。

「し、食事は……まだいいです。すみません、気を遣わせてしまって。お腹が空かないんです」
「次第に空いてくるよ。昨晩も何も食べないで寝てしまったじゃないか。空かないことはないだろう」
「違うんです、その……飲み込もうとすると息が詰まってしまいそうな。今朝は特に胸が締まって吐き気がして」
「吐き気……?」
「少し寒気がするから、寝冷えでもしたのかもしれません。僕、寝相悪かったかな……」

 そう言ってことりはふわりと笑った。額をみればやけに汗をかいている。冷や汗だろうか、眠れたというのが嘘みたいに目の下は青く大きな目がさらに大きく見えるほどくぼみクマが酷い。
 ことりを椅子に座らせて両手でその顔を包んだ。痩せた身体の割に頬は多少ふっくらとしている。しかしそれも最近ではやつれて見える日が多かった。その頬が、今日は少し熱い。

「少し熱があるんじゃないか、風邪でもひいたか?」
「季節の変わり目ですからね、すみません、午前中横になっていたら治ると思います。午後には教室のお掃除を終わらせますから」
「無理をしないで良いよ、今日はゆっくりしていなさい」

 ふらふらとおぼつかない足元でことりは自室に帰っていった。台所に残されたのはコップ一杯の水だけ。

「大丈夫なのか……?」

 黙って消える寸前のことりの痩せた背中に透ける肩甲骨の影が、まるで本物の鳥の羽のように見えた。

 ***

 仕事に夢中になっていたら午前十時を過ぎていた。そろそろ昼食の準備も考えないと。ことりはあれから眠ってしまったのか物音ひとつ立てる様子がない。完成したキャンバスを乾かしながら、絵の具で汚れたエプロンを脱ぎ、再び台所へ。手を洗って府と床を見ると小さく折り畳まれた薬のシートが落ちている。

「解熱剤……?」

 こんなもの俺は飲んだ覚えがない。ことりだ、ことりが来て飲んでいったのだろう。シンクに洗われた水滴のついたコップを見て、慌ててことりの部屋に行く。解熱剤を飲むほど熱が上がっているのか。何も食べないで薬だけ飲んで、身体に良いはずはないだろう。

「ことり、入るぞ!」

 ノックをして返事を待つ前にドアを開けた。そこにはベッドから起き上がりうつむいたことりの姿があった。乱れた寝間着の胸元があらわになっている。でこぼことくぼんだ真白く骨の浮かんだ胸をかきむしることりの細い手指。肩で息をしているのか、上下を繰り返してうつろな目がこちらをみた。その目は赤く、充血している。

「せんせい……」
「どうした、苦しいか?」
「いきが、苦しい……熱が下がらないみたいで、すみません」

 再びその頬を包めば、朝とは比べようにならないほど熱く汗ばんでいた。呼吸が速く、その身体はぐったりと力がない。

「熱いじゃないか、だいぶ熱があるな。体温計で測ってみたか?」
「体温計、みつからないんです……で、でも大丈夫です。動けますから」
「嘘を言うな、こんなにぐったりとした身体で。横になりなさい、冷やすものを持ってくるから」
「ひ、冷やさないで良いです」
「どうして?」
「寒いんです、布団一枚では震えてしまって」
「……毛布を持ってくる」

 見れば背中からガクガクと小さく震えている。あんなに熱い頬をして、けれど寒くてたまらないなんて。まだ熱が上がるのだろうか、解熱剤は全く効いていないようだった。
 倉庫になっている部屋から真冬に使う厚い毛布を出してことりのもとへ。肩まで薄い布団にくるまったことりは速い呼吸を繰り返しながらひどく身体を震わせていた。握った手は冷たく白く青ざめている。小刻みに震える背中をさすり、毛布を身体にかければ、ことりは少し柔らかい表情をした。ずっと寒くて仕方がなかったのだろう。長い髪を撫でれば、汗で少し濡れている。触れた寝間着も濡れて、冷えていた。しかし着替えさせようと促すも、動くことすら辛いからとことりは謝った。

「温かいものを作ろうか? 身体が温まれば少し楽になるぞ」
「食べたくない……」
「まだ吐き気は治まらないか?」
「動くと戻してしまいそうで……ご、ごめんなさい」

 そう言ってぎゅっとことりは歯を食いしばった。無理はさせないほうが良いか、何も出来ないことを悟ってしまったので、仕方なく俺はことりの部屋を出た。今日はもうこのまま寝かせておいたほうが良いだろう。
 教室の掃除は自分ですることにして、昼食は一人冷蔵庫にあるものですませる。起きてくるかもしれないことりのために温かいお茶をいれたが、一向に部屋から出てくる様子はなかった。

 ***

 夜になってもことりは臥せったままだった。熱は相変わらず下がる様子はなく、しかし寒気を訴えていた身体は熱くなったのかびっしょりと汗をかいていた。

「ことり、着替えよう。ひどい汗じゃないか」
「ひとりで……着替えます、大丈夫です」
「手伝わなくても大丈夫なのか?」
「き、着替えくらい出来ますから」

 そう言って薄く微笑む。夕方の薄明りの中でも顔色が酷く悪いのがよく分かった。一日中熱を出して、結局何も食べられなかったから仕方がない。ことりはゆっくりと起き上がるも、がくりと力が抜けてそのままベッドから転げ落ちそうになる。慌ててその身体を支えて抱き寄せれば、その身体はあまりに華奢ですっかり骨ばってしまっている。ここ一か月でやけに痩せた、出会ってから半年、元々少食だったのは変わってはいないが最近はやけに食べない。体重計すらない己の自宅を悔いた。明らかに痩せすぎているこの身体をどうにかしてやらなければならない。そうでもしないとこのままでは……。

「待ってろ、ことり」

 ***

 古びたビルの地下にある本堂医院は一日を終えたばかりのようだった。看護師も帰った医院内でひとり凪彦が掃除をしている。

「今日は終わりましたよー……って、なんだ、香人じゃないか」
「凪彦、今夜は空いているか?」
「酒か?」
「いや、ことりが……」
「なんだよ、深刻な顔しやがって。なにかあったんだな?」
「朝から高い熱をだしていて」

 医師である凪彦に今日の事情を話した。じっと話を聞いていた凪彦は話が終わると荷物をまとめだす。

「凪彦……?」
「いまからお前の家に行く、ことりの診察だ」
「悪いな」
「お前もな、そう言うことはさっさと言いに来いよ、かわいそうだろうことりが。一日中苦しかっただろうに」
「……」

 ことりの一日を思いながらそのまま凪彦の運転する車で帰宅した。自宅は出て行った時のまま明かり一つついてはおらず、真っ暗な部屋で物音ひとつもしない。凪彦は眉を寄せて、黙って玄関で靴を脱ぐ。

「ことり! 帰ったぞ、眠っているのか?」
「……香人、明かりつけろ」
「え?」
「いいから」

 言われた通りに部屋の明かりをつけると足元に無防備に投げ出された白い腕があった。そこには意識を失ったことりが倒れていて、思わず息が止まる。

「こと……!」

 ***

 本堂医院に戻り、空いたベッドの上でことりは白い顔をして眠っている。凪彦の処置が終わってしばらくすると速かった呼吸も多少落ち着いて、熱も少しずつ下がって来ているようだった。細い腕には長い管のついた点滴がつながれている。

「こじらせたなぁ……栄養不足もたたったな、体力がだいぶ落ちていたんだろう」
「ことりはこのまま良くなるのか?」
「熱が下がって食事がとれるようになったらなんとかな」
「食事……」
「それが難しいがね、ここのところまたろくなもの食べてなかったんだろう?」
「食事をしようとしなかった」
「まあそんなところだろうな、この身体じゃ熱も下がらない」

 そっとことりの手に触れる、下がって来たとは言えども未だ熱い手をしていた。愛おしい手のひらだった、凪彦はその光景を見て苦笑する。

「何がおかしい?」
「いや、香人にも大切なものが出来たんだな」
「悪いか」
「はは、良い傾向だよ。ひとは誰しもそう言ったものがあってしかるべきなんだ。今までのほうが変だったんだよ」
「変って……」
「いつも何もこだわらない顔して、執着もしない変な男だと思っていたぞ」

 確かにことりと偶然の出会いを果たすまで、俺に大切なもなんてなかった。絵を描くことは生きていくのに大事ではあったが、描けなくなっても死にはしない。だけどことりは……。

「大切だと思うならその手を離すなよ、香人」
「凪彦……」
「うっかり失ったらもう二度と手に入らないもの、この世にはいっぱいあるんだからな」
「ああ、わかっているよ」
「いいや、お前は本当のところをまだ知らない。ことりの存在は思ったよりも大きいぞ」

 ことりがいるから生きていける、そう言うこともあるかもしれない。もしいまこの呼吸が止まってことりがいなくなってしまったら、残りの人生を一人で過ごすことになるのだ。それはなんて恐ろしいこと。

「……凪彦、何か食べやすい料理はないのか」
「作るのか?」
「ことりを生かすためだ、何だってするよ」

 今夜はもう眠らない、ことりが目を覚ますまでそばにいる。この熱が下がるまで、ずっとそばで見守っているつもりだ。高熱をさげる一杯の水みたいな、どうかことりを救う糧になりたい。そのためなら何を引き換えにしても構わない、そんな感情は生まれて初めてのもので、自分でもどこか不思議だった。でも、それでも、それでもこの手は離さない。