拾われたことり

 晴方(はるかた)ことり。
 僕は、絵を描くのが別に好きなわけではないのに、デッサン教室のアシスタントをして暮らしている。それは先生の言うことを聞いて仕事をしていれば、とりあえず路頭に迷わないからと言う少し卑怯な理由だった。本当は芸術家なんてそんな適当な理由で関わって良い仕事ではない。それは先生の背中を見ていたらよくわかることだったから。

「あ、ごはん……」

 先生は一足先にアトリエに向かっていったようだ。あとから目を覚ました僕のために簡単な朝食が用意してあった。先生は家事も仕事も出来る一人でも暮らしていける人、そんな人が僕のために朝食まで。だけど僕は……。
 申し訳ないけれど食べたくないな、と思った。一口食べたらもっと食べたくなってしまいそうで、そしてきりなく食べて醜く太ってしまったら最後、僕はもう自分が許せない。何もできないくせに、太って、この身の価値さえも失って。
 先生はよく僕をデッサンのモデルにした。太ったらきっともう僕をモデルになんか使ってくれない。母だってそうだったから、幼い僕に太ることは醜いことだと、そう言って聞かせて日々成長して行く僕を否定した。母も壊れた人だったのだと思う、僕に呪いを植え付けて、歪んだ自己管理を刻んでやがて家を出て行った。残ったのはひとりぼっちの痩せた歪んだ幼い子供。かわいそうだ、とみんなが言って僕の歪みはさらにひどくなる。
 ことりはいらない子。
 それでも僕が痩せ細っていてかわいそうな子供じゃなくなってしまったら、僕の不幸の理由がわからない。痩せてるから優しくしてくれるんだって学んだのは小学校も終わるころで、その頃にはもう僕は普通に食事なんて出来なくなっていた。でもそれでもよかったのだ、母は僕を捨てたけれど周りの人達は母以上に僕に優しくしてくれたから。
 しかし僕に手を焼いた父もやがて距離をとって、食べられない僕は引きこもる。

「先生、ごめんなさい」

 朝食にラップをかけて冷蔵庫にそっとしまった。これは食べられない、食べたら僕が壊れてしまう、ああなんて愚かで自分勝手な理由。何も口にしないまま、僕は身なりを整えてアトリエに向かう準備をする。

 ***

「ああ来たのか、ことり」

 清月香人(せいげつきょうと)はこのデッサン教室の講師をしている。主にこの街の人がちらほらとやってくるこの教室は一日中誰かが絵を描く空間になっていた。清月先生はあまり語らない人だけれど、とても上手に絵を描く。このデッサン教室を開くまでは高校の先生をしていたらしい。教えるのは慣れているのだ。

「ケント紙を二十枚数えて用意しておいてもらえるか」
「はい、先生」

 先生の言いつけ通り、僕は倉庫からケント紙の束を取り出して、枚数を数え整えて先生のもとへ。先生は教材の用意をしているのか、大量のコピー用紙を持ってそれをホチキスで閉じていた。

「テキストですか?」
「今日から新学期だからね。生徒が数人増えるよ」
「わ、やった!」
「この教室が気に入ってもらえるかわからないが、ただ精いっぱいやるだけだな」
「はい、そうですね」

 いつもよりも嬉しそうな表情をしている先生、その気持ちがみんなに伝わると良い。絵を描くことは楽しいんだよって、先生は一人でも多くの人に伝えたいのだ。

「モデルになってくれないか、ことり」
「先生」
「絵を少し描きたい気分なんだ、準備も終わったことだし」

 そう言って先生はスケッチブックを取り出した。僕は心が少し暖かい気分になって、椅子に腰かけて上半身に羽織っていたシャツを脱ぐ。

「ことり、また痩せたんじゃないか?」
「そんな、変わってませんよ」
「食事はきちんと食べないとだめだよ、そんなに浮いた骨格をして」

 でも、だから先生は僕を描いてくれるんでしょう? そんなこと別に言われたわけじゃないのに思ってしまう僕は、やはりどうかしている。

「綺麗だよ、ことり」
「先生にそう言ってもらえるだけで僕は十分です」

 そうして先生は僕をデッサンする。
 存在意義だ、先生の絵は僕にここにいても良いよって言ってくれるみたいで。

 ***

 昼を過ぎ、デッサン教室が始まった。午後と夕方に授業があるから先生はちょっと忙しい。デッサンが今日初めての人のために説明しながら授業を行う。僕もいつもなら必要な時は手伝ったりするのだけれど、先程から繰り返し眩暈がする。朝だけじゃない、昨日から何も食べられなかった。自業自得だ、望んで食べない僕が悪いのだから。眩暈は立ち眩みも加わって、思わず音を立てて椅子に座り込む。そんな僕に先生だけが気がついた。僕はたまらず下を向く。
 皆がデッサンに夢中になった頃、先生が僕の隣にやって来た。そして小さく耳打ちする。

「ことり、しばらく部屋で休んでいなさい」
「先生……」
「食べられるのなら何か食べて、夜も授業はあるからね」

 ***

 自室のベッドに横になるとじわりと身体中の血液が回る感覚があった。栄養の足りない身体では立っているだけでも負担になるようで、耳鳴りがうるさくて溜息が出る。この部屋も住み込みで働く僕のために先生が用意してくれたものだった。

「はぁ……」

 ここまで調子を崩しても食べたくないなんて、僕はやっぱりおかしい。食べることは本来何も怖くなんかないことだったはずだ。太って捨てられてしまう不安を、食べないことでどうにかしようとしていた。昨日もそんな一日で、結局口にしたのは生きるための最低限の水だけだった。こんな生活絶対身体に良いはずがない。腹部が音を立てている、身体はこんなにも栄養を必要としているのに、僕は、ただひたすらに食べたくなくて。

「眠っているのか?」

 気が付けば部屋の入り口に先生がいた。汚れた生成りのシャツに無造作にあげられた髪、仕事中以外は眼鏡をしない。いつもの先生だった。

「先生……」
「体調が悪いか、ことり」
「大丈夫、大丈夫なので……手をつないでください」

 僕の甘えにくすりとも笑わず、先生は黙って手をつないでくれた。大きくてたくましい、固い指には大きなペンだこが出来ている。いままでずっと絵を描いて生きて来た人の手だった。

「冷たい手だな、寒いのか?」
「先生の手がこうして温めてくれるから大丈夫です」
「おいで」

 先生の体格の良い胸が僕を包み込んだ。丸めた背中が優しくて温かくて、なんだか泣いてしまいそうだった。僕は、ことりはずっと先生のもの。

 ***

 デッサン教室の一日の終わり。多少の回復から夕方の授業も手伝いに出たけれど終わる頃には再び貧血が酷くて片付けをしながら座り込んでしまっていた。生徒の帰った教室の隅で動けなくなっている。先生は倉庫で仕事をしているようで、僕は意識を失う前に助けてを言わなきゃならない。
 起き上がれない、声も出ない、目の前は時折真っ暗になるから一人で過ごすのが怖かった。ここで意識を失ったらそのまま目が覚めないのだろうか。あえて食事をしないと言うことは生きることを拒否すること。それをわかっててやっているのだから、結局悪いのは僕、それなのに助けてだなんてむしが良すぎる。

「ことりー、どこだ? 帰ろう」

 先生、必死で立ち上がるように床を這う。息切れが酷く強い眩暈に吐きそうで、うまく声が出なかった。

「ことり? いるのか」
「せんせ……」

 先生どうか気がついて、僕は必死で椅子を一つ倒す。そしてそのまま椅子と共に倒れて、意識が落ちるのは一瞬だった。

 ***

「……だから食事をさせろって言ってるんだよ」
「用意はしている、でも食べないから……」
「食べないからで放って、度々貧血起こして倒れてたら仕方ないだろう。意識飛ばして倒れる時、頭でも打ったらもしものことだってあるんだぞ」
「……」

 先生が怒られている。その怒っている声の主を僕は知らないわけではなく、それも正直ちょっと苦手な人だというのはわかっていた。だって彼が言うのは正論だから。ただそれは彼の職業柄、当たり前のこととも言える。
 僕の身体には毛布がかけてあった。多分先生だ、僕を抱えて部屋まで連れて来てくれたのだろう。体温が下がっているのかさむくてふるえながらも、何だか眠くて仕方がない。毛布にくるまり、長く息を吐くと二人が部屋のドアを開けた。

「ことり、起きたか?」
「よう、おはよーことり」
「せんせ……凪彦さん……」
「なんだ、顔色悪いなあ。今日は特に青ざめて、もしかして香人にこき使われたか?」
「先生は優しいです……僕は、その、少し気持ち悪くて」
「そんなこと言って吐くものなんかないだろ? 聞いたぞ、朝から何も食べなかったって、食事残したら勿体無いだろうが」
「ごめんなさい……」

 凪彦さんこと、本堂凪彦(ほんどうなぎひこ)さんは先生の親友で医者をしている。夜になると遊びにやって来て、その度に僕は不調を見抜かれ怒られてしまう、いつもいつも。
 彼は大きな手で僕の顔を撫でて、頬の冷たさに眉を上げる。そして毛布をかけ直して、僕の全身を包んでくれた。

「ことり、明日にでも病院来い。食べられないなら点滴でもしないと身体が持たない」
「て、点滴は……」
「注射嫌いなのはわかるが、そうも言ってられないんだ。また痩せたな、このままだとそのうち立てなくなるよ」

 その言葉に表情を変えたのは先生の方だった。布団の隙間から見る彼の顔は明らかに強張っていて、無表情が常の先生に確実な動揺が見える。

「凪彦」
「香人、ことりの身体を考えるならお前が引きずっても連れてこい。俺は嘘と大袈裟なことは言わないぞ」
「……わかった」

 そして二人は部屋の明かりを消して出ていった。面倒なことになってしまった、先生は本当に僕を引きずって凪彦さんの病院に連れて行くつもりなのだろうか。

「嫌だな……」

 病院は僕にとっては厳しいところだった。食事をとらずに幾度も倒れ、初めて入院したのは中学生。生きるかどうかの瀬戸際で医者は厳しく看護師はたえず僕をじっと見張っている。入院したくない、そう言えば食べたら退院させてくれるとは言うものの、そのハードルが僕には高い。結局最後はいつもベッドで無理矢理管を繋がれて生きることを強制された。なにもしてないのに醜く太っていく自分に嫌悪感を抱きながら、そして僕は今日まで生きてしまったと、いつもいつも後悔を繰り返すのだ。

 ***

 深夜、誰かが僕を呼んでその手をじっと握り続けている。眠れないのか、多分きっと僕のせい。大きくて固い手が力強くて、生きていることを実感する。彼も、僕も。

「ことり……どこにも行ってしまうな」
「……せ、」
「俺はもう一人にはなりたくないんだよ」

 嘘だ、あなたは一人でも生きていける強い人だ。僕なんか理由にしなくても、生き抜いて自分を叶えられる人。だからどうかそんな弱い言葉、言わないで下さい。
 ああ、朝が来る。今日も一日生き延びてしまった。そんな朝を迎えながら優しい人はじっと僕を見つめている。僕はそっと手を伸ばして、彼の逞しい頬に振れた。

「先生……ことりは、先生のものですよ」
「本当に?」
「嘘なんか言いません、だって僕は先生のために生きているようなものなんですから」
「じゃあまだそばにいろよ、どこにも行かないで俺のそばにいるんだ」
「先生……」

 しかしこの身体を保つことは難しくて、僕は生きることに今日も迷うのだ。それでもことりを生かすのは、あなたです、先生。