孤独の群-04アンカー

「僕は嫌だな」

 あからさまな嫌悪感。たかが学校行事に対してそんな感情的な言葉をリャムから聞くとは思わなかった。国立創造研究学園最高学部一年、クラス別対抗合同陸上競技大会。いわゆる運動会は都市の暑さを考慮して、学年ごとに例年夏の雨季の前に開かれている。これは単なるレクリエーションであり日常の成績には一切関与しないが、こんな機会がなければ輝けない学生は一人や二人ではない。

「なあなあなあ、リャムよ、俺の足は速いぜ」
「確かにミヤツカはそんな顔してるね。でも僕は、嫌だ」
「はっはーん、リャムまさかお前運動苦手だろう?」
「移動手段が確保出来るのならば、多少足が速かろうが遅かろうがそんな評価は総じて無意味だ」
「難しい言葉で誤魔化すなよ、鈍足」
「ど……」

 いつもは見下ろしている立場なのだから、たまには逆の立場になって良いのだ。しかもこのあからさまに嫌な顔は並大抵の苦手というくくりには入らないのだろう。走ったらビリか、最下位か。留年のため元々学年の違っていたミヤツカは授業で実際にリャムの走るところをまだ見たことがない。

「リャム・ルー? ああ、彼はいつも見学だったよ。準備体操くらいは参加していたけど、あとはレポートだって」
「なんで!」

 リャムと同級だった学生に中等学部までの彼のスポーツの授業について聞いた。その場には数人いたが皆、リャムが走るどころかボールひとつも投げたところを見ていないと言う。

「何でも初等学部の頃無理して授業中に倒れて、それ以来見学らしいよ。飛び級の試験はスポーツないし、授業で提出されたレポートもあいつの書いた文章だからな」
「何だ、つまんねえの」
「天才はやっぱりうまくやるよなあ」

 ということはもうリャムは五年ほどろくに身体を動かしていないということになる。一応全員参加を求められている陸上競技大会の参加はするとして、選手が無理なら応援団……は似合わない。運動着を配られた放課後の学生寮では、リャムが試着もせずに読書をしていた。

「リャム、お前、陸上競技大会は何の競技で参加するんだ?」
「長距離走」
「ちょ……いや、無理だろう」

 結局、参加する競技はくじ引きで決められた。応援団も向いていないがよりにもよって長距離走。最初から歩いたとしても完走は無理なんじゃないかとミヤツカは逆に心配してしまう。

「君は?」
「俺はリレーだ、しかもアンカーな」
「プレッシャーが過ぎるね」
「でも俺、速いからな?」

 ミヤツカの足が速いのは本当のことだった。学園に入学してからはスポーツの授業のたびに記録を作って、その度に講師陣に混乱をもたらした。心配なリャムの長距離走だってミヤツカが代わりに走ればおそらく首位争いくらいにはなるだろう。けれど一応学校行事なので、ミヤツカばかり出張るわけにはいかない。これは皆で作り上げて、盛り上がるイベントなのだ。

「僕の走るところなんか見ても誰も楽しくないよ」
「まあ……なんだよ、お前にしてはやけに弱気だな。負けるとわかっている喧嘩はしたくないのか?」
「人には最善を尽くしても無理なことがある」
「俺が観客席から応援してやるよ、旗ふって」
「やめてくれ」

 いつもより憮然として少し不機嫌なリャム。そんな彼に気を遣ったミヤツカが早朝早起きをして軽くランニングでもするかと提案するも、今更遅いとリャムは言う。確かに陸上競技大会はもう三日後のイベントだった。

「リャム、雨降れって思っているだろ?」
「そんな幼稚な……三日後は曇り時々晴れ、屋外イベントには最適な天気だったよ」
「調べてんじゃん」

 ***

 そして、その日の朝は予報通りの天気だった。普段は有志のスポーツ系サークルが使っているキャンパス内のグラウンドには、本日のタイムスケジュールが貼り出された。学年ごとだからそんなに広大な敷地はいらない。早朝から一部の活気あふれる学生はもう現場に到着していた。

「リャム、そろそろ行こうぜ!」
「まだ三時間もあるじゃないか、こんなに早く行ってどうするんだ」
「良い観覧席取るんだよ!」
「別にどこでも良いよ」

 早朝からもう起きて着替えている、ミヤツカ。リャムは大きなため息をついて今日の天気予報が外れていなかったことを呪う。

「なあなあリャムは昼飯どうするんだ? 食堂で弁当配ってるって言ってるけど」
「僕には食べられないおかずがきっと入ってる。購買でパンでも買おうかな……」
「水分補給も忘れずにな! 最近流行ってるナナヌシノ茶飲んだことあるか? ストレートでも甘くて美味いぞ、水分補給には最適。購買にはないからグラウンド近くの商店街に寄ろうぜ」
「はいはい」

 どうしても気が進まないリャムだったが、ミヤツカが急かすものだから仕方なく着替える。食堂はいつもはこの時間は閉鎖されていたが、今日の朝は特別に開放されて学生が多く滞在していた。確かに無料の弁当も置いてある。
 しかし、こういう空気は正直苦手だ。はしゃいでいるミヤツカには悪いが、集団の中に馴染めない感覚をずっと持ち続けていたリャムには、人の多い中でこそいつも以上に孤独を感じてしまう。皆の盛り上がる中について行けない。そしてやはり自分はいない方が良いのではないかと、一歩引いてしまうのだ。

「リャム、どうした? 飯食おうぜ」

 ミヤツカにはわからないのだろうか、この感情は。それでも彼が優しく笑うから、リャムは黙って彼の後に付いて行く。どこか甘えているのかもしれない、ミヤツカがいつも差し出しているその大きな手のひらに。こんな感情はリャムにとって初めてのものだった。

 ***

 準備運動がてらに一人キャンパス内をランニングしている。身体を動かす授業が最高学部になってからなくなってしまって、ミヤツカは日々にうんざりしていた。机の上で繰り広げられる授業もためにはなるが、時には思いっきり走り回りたい。だからと言ってスポーツサークルに入ることが出来るほど成績に余裕があるわけではなかった。
 両手にはキャンパス最寄りの商店で買ったナナヌシノ茶のペットボトルを二本。一本はリャムに、運動したら暑くなりそうだからもっと買っておけば良かったか。どうせなら目が眩むくらいに晴れたら良いのに。身体を動かす一日に晴れた太陽はきっとよく似合う。
 走り浮かんだ汗を拭いながら、会場であるグラウンドに戻って来た。リャムと席とりをしていた場所に来たものの、肝心のリャムがいない。そばをうろついていた同級生に声を掛けるも誰も知らないという。今更逃げたか? いや、あいつは真面目だから……。

「ミヤツカ」
「リャム、お前何やっ……え?」
「転んだ」
「こ、転んだってそれ、やばいだろ!」

 物言わぬヒトナミに支えられて帰って来たリャムのハーフパンツからのぞく白い右足からは、滴るほどに血の流れる大きな傷痕が。ミヤツカは思わずナナヌシノ茶を地面に落としてしまった。

 ***

「お前……本当に運動ダメなんだなあ」
「だから言ったのに」

 まだ誰も怪我人はおらず、準備も十分に出来ていなかった救護所に今日初めてやって来た学生はリャムだった。傷は血が止まるまで時間がかかって、そうしているうちに陸上競技大会は始まってしまった。ミヤツカがリャムになぜこんなことになったのかと聞いてみれば……。

「走るのとか随分と久しぶりだったから、準備体操をしていたんだ。そうしたらバランスを崩して転んでしまって」
「転んでそこまで深い傷になるかよ」
「運悪くそばに尖った大きな石が落ちていたんだ、それが足に刺さって」
「わ、やめろリャム! グロい話は聞きたくない!」
「君が自分で聞いたんじゃないか……」

 わっと歓声が聞こえた、短距離走者が次々にゴールして行く。今年の一年には男子学生しかいないから、その声も華やかなものではないが活気だけはある。救護所のテントの中から、ミヤツカがうずうずとしているのに気がついたリャムは苦笑して彼をうながす。

「もっと近くに行って見て来て良いよ、君はラストのリレーだっけ? 応援してる」
「おう、絶対一位とるからな! 見てろよリャム」

 ミヤツカが駆け出して行った。リャムはずっとこんなイベントなんてつまらないと思っていたが、ミヤツカの走りは見てみたいかもしれない。手当ての礼を言って、ヒトナミに手伝ってもらいながら席に戻れば、遠くでミヤツカが周りの学生と笑顔でストレッチをしているのが見えた。少しもやりとする、彼の隣にいるのはいつでも自分が良かったのに……なんて。

「……おかしいな、これはなんて言う感情だ?」

 席には水滴と泥のついたナナヌシノ茶のペットボトルが置いてあった。

 ***

「走れーー!」

 学生らがわっと声をあげた。リャムが出るはずだった長距離走が終わり、いよいよリレーが始まった。リャムとミヤツカのクラスは赤いハチマキ、列の後ろでアンカーのミヤツカが待機している。基本的に感情のブレないリャムが痛む足をおして珍しくドキドキとして席から立ち上がった。ミヤツカ、がんばれ。リャムが今ここでその言葉を叫んだら周りは驚くだろう、自分で自分のキャラクターくらいわかっている。それでも心の奥では精一杯に応援している、もうすぐミヤツカの番だ。

「……ミヤツカ」

 現在赤のチームの順位は三位。誰にも抜かれなければ表彰台には乗れるだろうが、そう言うのじゃない。ミヤツカは一位になるって約束したから。
 今、バトンがミヤツカの手に渡る。あたりはわっと盛り上がって、ミヤツカは今、駆け出した。

「ミヤツカ」

 速い、本当に速いじゃないか。離されていた距離はすぐに近づき追い越して行く。誰もついてはいけない、今二位、ああもうすぐトップになる。

「ミ、ミヤツカ……!」

 接戦ののちミヤツカがトップに躍り出た。そうしたらもう距離は離れていく一方でやがて彼が万歳をしながらゴールテープを切る。ぶっちぎりの優勝、ミヤツカを歓声が囲んでいる。そんな彼はキョロキョロと何かを探しているようだった。
 ミヤツカが約束を守ってくれた。
 その事実にリャムは興奮が覚めなくて、その場にただ立ち尽くしていた。本当に一位になったミヤツカ、嘘じゃなかった。

「おーい、リャムーー!」

 表彰台に乗るミヤツカがリャムを見て手を振っている。思わず振り返してしまいたかったが、周りの視線が気になって思わずリャムは目を逸らした。
 ミヤツカはすごい。走ることすら叶わなかったリャムとは天と地の差。リャム・ルーの敗北、今日はそれでも負けて嫌な気はしなかった。

「おう、見てたかリャム」

 表彰式と閉会の言葉が終わり、片付けの終わったグラウンドでミヤツカがリャムを見つけた。その手には記念のプレートを持っている。

「な? 俺、足速かっただろ」
「まあね」
「来年は今度こそ俺がお前の応援をしてやるよ」
「いい」
「照れるなって、走ってる時お前の声が聞こえた気がしたんだ。だから勝てたんだぜ?」
「お、応援なんかしてない」

 その瞬間、未だ足を引きずるリャムをひょいとミヤツカが抱き上げた。驚いたリャムは慌ててミヤツカにつかまる。

「あ、あぶ……!」
「そう、危ないからしっかりつかまっとけ。ところで飲んだか? ナナヌシノ茶」
「甘かった」
「ジュースみたいだよなあ、でもお前甘いもの好きだからちょうど良いだろ?」
「……まあね」

 リャムを抱いたミヤツカの影が芝生に遠くに伸びる、いつの間にか空が夕焼けの空になっていた。よく晴れた気がする今日の日を例えるならば、それはちょっとした青春の一日。その時リャムは自らの個人的な『何らかの感情』に気がついて、しかし、それをうまく言葉にすることが出来ないでいる。リャムの頬に触れたミヤツカの肌は少し汗ばんで、部屋で一緒に使っているボディーソープの香りがした。