孤独の群-03大人にはならない

「まあ! 今でも背が伸び続けているのねえ。もう二十歳も過ぎているんでしょう?」
「はあ、飯食えば食うほどどこかしらでかくなるんすよ」

 翌週末に健康診断があった。もうここ十年くらい風邪すらひかないミヤツカは看護師に逆にその丈夫さに驚かれながら基本問題はなし。ただ成人した今でも身長が未だ伸び続けているのが疑問だったが。ぼんやりと成長期が終わらない不思議を考えながらリャムを待つ。しかしリャムは一向に出てくる様子がなく、どこからか看護師と思われる女性のお説教が聞こえていた。

「……あなたねえ、毎年痩せていくばかりで今年なんて低身長の女性でも少ないくらいの体重なのよ。食べられないなら診断書を書くけど」
「いえ、結構です」
「そんなこと言っていつ倒れるか心配なの、わかってるの? 顔色だって全然血の気がなくて……」
「体調不良はありません、大丈夫ですから。失礼します」

 追いかけるような看護師から慌てて逃げてきたリャムは、ミヤツカと目があうと少し気まずそうな顔をした。二人は足早に健康診断会場から出て寮に戻る。

「何怒られてんの、お前」
「大袈裟なんだよ、適正体重とか食事とか……僕は平気だって言ってるのに」
「でも健康って大事だぞ」
「君もその辺の大人のようなことを言うのか」
「実際大人だけどな」

 年の差なんて普段感じたことはなかった。しかし改めて思ってみれば二人の違いは案外あって、よくよく意識すればリャムはまだ十代の子供だ。勉強は出来るが未だ不安定なところがある。

「……大人になんかなりたくない」
「案外悪くないぜ、酒も飲めるし煙草も吸える」
「興味ないよ、そんなもの」

 ぷい、とリャムは窓の外を見た。その横顔は確かに少しやつれている。

「ヒトナミが羨ましいよ、食事を食べなくても酒を飲まなくても誰にも怒られない。僕も誰にも何も言われずに、ただ静かに過ごしたいだけなんだ」

 ***

「おいミヤツカ!」

 夕食を終えてやり残した課題を一人、寮の部屋でミヤツカが解いている時だった。リャムはちょうど用事があると出かけていて、そこへ慌てた同級生が駆け込んで来る。

「なんだよ、騒がしいなこんな時間に」
「大変だよリャムが、廊下で」
「廊下?」

 嫌な予感がして慌てて立ち上がった。廊下は人が集まって、ちょっとした騒ぎになっている。

「リャム!」

 床に伸ばされた細く白い腕、それを目で追って行くと目を閉じたリャムが床に倒れている。真っ白な顔が人形じみていて、そこにいるのが本当にリャムなのか……応急処置的なものは授業で習ったことがある。人を退けてリャムのそばに行ったミヤツカは、呼吸を確認しその頬に触れて生きていることを確かめる。しかし色のないくちびる、相当体調は悪かったんじゃないのか。夕飯はいつも通りろくに食べてはいなかった。しかし冷たい床に寝かせておくのは少しかわいそうなので、そっと抱きあげるも、なんて軽い。確かにこれじゃあその辺の女性の方が肉付きは良いだろう。部屋に入りその身体をベッドに寝かせれば、しばらくしてゆっくりとリャムが目を覚ました。

「……ミヤツカ……何……?」
「何って聞きたいのは俺の方だがね、頭打ってないか」
「腕が痛い、膝も」
「足から倒れたんだなあ、まあ運が良かったな。頭から行ったら死んでたぞ」
「そんな、大袈裟……」

 リャムだってミヤツカと同等以上に医学の知識はあるはずだ。しかしそれが実際の生きている人間に生かされていない。細く軽い身体をして、それでも自分を省みない。

「リャム」
「……」
「何か食いたいもんはないのか」
「いらない」
「曲がってんな、ガキ」
「……うるさい」

 リャムの心をのぞいた気がしたミヤツカは課題をやめて部屋を出た。そして寮の購買でヒトナミから栄養ゼリー菓子を購入する。大して身にもならなそうだが、どこか歪んだリャムの心を正すきっかけにでもなれば良い。しかし思ったよりその闇は深そうで、ミヤツカは珍しく悩んでいた。夜は更け、もうすぐ消灯の時間になる。

 ***

 先日行われた今年度初めての定期試験の結果が発表された。各教科首位を独占していたのは……。

「あいつ、バケモノかよ」

 周りで囁かれるその意見に一番そばで彼を見ていたミヤツカもわからないことはなかった。何しろリャム・ルーの点数は各教科軒並み満点、一つ二つのミスはあれど、平均点は余裕で越している。それを本気で悔しがるもの、もう意味すらわからないもの、総じてリャムとは天と地の差がある凡人の一部から、彼はあまりよく思われてはいなかった。
 部屋に帰ればリャムが一人デスクの上の電子端末を見ている。まだ勉強するつもりなのか、いや、よくみれば違うようだ。

「何だよそれ、リャム」
「それは僕が聞きたいんだけどね。全く、低レベルとしか言いようがない」

 教科書のデータやレポート類を書いているリャムの端末には大きないたずら書きがしてあった。ディスプレイに大きなバツ、そんなものを書かれたらまず内容が読めない。

「ちょっと、学生窓口まで行ってこようかな」
「犯人探しか?」
「馬鹿馬鹿しい、クリーニングを頼むだけだよ。代替機がなければ課題も出来ない」
「何だよ犯人野放しかよ? そんなことされて黙ってんのか!」
「言っただろう、馬鹿馬鹿しいって。犯人を探してもこの端末の汚れは取れないし、そもそも無料でクリーニングはしてくれるからね」

 このような嫌がらせは慣れているようだった。確かに飛び級を繰り返すほどに優秀ならそれぞれの場所で目立っていたのだろう。優秀と言われているこの学園に通っていてもただ気に入らないからと、子供っぽいちょっかいを出してくるものはいた。

「大人のくせに情けないものだな」
「リャム」

 リャムはそのまま電子端末を持って部屋から出て行った。時刻はちょうど夕飯時で彼はそうすぐには帰って来なそうだったから、ミヤツカは一人で食堂に行くことにした。

「よう、一人か?」

 ヴェル・ム・カンナとその取り巻きたちが食堂でミヤツカと入れ違いで出てきた。腹いっぱい食べ満足そうなその表情はどこか小憎たらしい。しかし今期の彼らの成績は中の下、学年は違えどミヤツカの方が成績は良かった。

「……あいつは低レベルな嫌がらせで、いま」
「何それ」
「誰がやったんだが知らないが、とりあえずお前も変な気起こすなよ」
「何だよ、何があったのかは知らないけど、意味わからないことを言っているんじゃないよ。そうそう件の天才の彼、特別奨学金生だってね?」
「えっ、……まじかよ。本当に?」

 特別奨学金生、この学園の学費から寮費から全て無料で、しかも実家の生活費まで支払われると言う。かなり優秀な学生でないと合格はない、さらに入試の際には一般入試とは別にさらに難関な試験まであると言う。あまりの厳しさにそれは毎年決まっているわけでもなかった。そんな都市伝説級の学生が、ミヤツカの隣にいるなんて。

 ***

 消灯間際の三十七号室にて、シャワーを浴びたリャムが備え付けの浴室から出てきた。この時期でも浴室が暑くもなんともないのか、無表情でいつもの白い肌に濡れた艶のある長い黒髪をかきあげている。支給されている寝巻きは、首元が大きくあいていてリャムには一番小さなサイズでも大きかった。その滑らかな肌にミヤツカは思わず息を飲む。

「……珍しいね」
「えっ、な、何だ……?」

 リャムは黙ってミヤツカのかけている眼鏡を指差して、ミヤツカは慌ててそれを外す。

「何だよ、勉強も出来ないのに眼鏡は変だってか?」
「別にそんなこと言ってないよ、似合うと思うけど。それに君は言うよりも勉強ができなくはないだろう。今回の成績だって軒並み上位には食い込んでいる」
「最高点は全部お前だけどな」

 黒縁眼鏡の汚れを拭いてミヤツカは少し迷ってから、カンナから聞いた件について尋ねる。その話にリャムは黙って眉を潜めた。

「特別奨学金生? そうだけど……嫌だな、そんな噂が流れているのか」
「何で、優秀なんだから堂々と自慢すれば良いじゃないか」
「自慢? そんなくだらないことしないよ」

 ぷい、と視線を背けたリャムはそれから少しの沈黙の後静かに言葉を紡いだ。

「僕には特別奨学金生でいなければいけない理由があるんだ」
「理由?」
「……君、この前僕は末っ子か一人っ子か、そんなことを聞いたね。残念ながらどちらも違うんだ。僕には弟が三人いる」
「さ……? 三人!」

 あまりに予想外、そんな感情が顔に浮かんでしまったミヤツカに、彼は苦笑する。リャムにしては珍しく『人間らしい』表情だった。

「とは言っても末弟は僕のことなんかおぼろげにしか知らないだろうけどね、何しろ十歳差だし……その末弟が生まれたころから母は体調を崩し出して、ろくに働くことが出来なくなってしまった。父の収入だけじゃ生活は苦しくって、その時の僕にできたことは何だと思う?」

 それはリャム七歳にして訪れた試練だった。バイトで新聞配達をするのだって、そんな幼い子供には出来ることじゃない。悩んだ末に幼いリャムは国立創造研究学園の特別奨学生の制度を知る。優秀な成績を収めるだけで、学費だけでなく実家家族の生活費を賄うことが出来るのだ。将来も手に職をつけて、生きて行くには困らない。仕送りだって可能だろう。

「僕は別に元々勉強が出来たわけじゃない。家庭教師つけるお金がなかったから、ただ寝る間も惜しんで一人で勉強して『天才』になるしかなかったんだ」

 学園の入学は十三歳でその前からリャムは一日机につかないことはなかった、いまだって時間があれば勉強している。

「幸いにも僕にはこれといった趣味はなかったからね。強いて言えば本を読むことぐらいかな、それも幼い頃からの勉強の習慣で身につけたものだけど。このまま学校を卒業して、何年かな……僕のことを家族がいらない、って言うまでは。その頃には皆それぞれの希望する人生だって出来てくるだろう。後十年かそこらでも僕が彼らが生きるために役に立っている間は、せめて生きようと思っている」
「リャム、それから先はお前の人生だよ。お前だって好きに生きて良いんだ、勉強が嫌ならすっぱりやめて、俺とどこかでのんびり暮らそうぜ」
「ミヤツカ……」

 リャムがあまりに寂しいことを言うからだ。でもミヤツカにとってそれは別に夢物語の一つではない。彼だってリャムをもっと知りたいし、これからも共に生活していきたい気持ちもある。その感情がリャムに届いたのか、彼は何とも言えないどこか寂しそうな顔をして呟いた。

「ねえ、ミヤツカ。僕は時々思うんだよ、こうやって生きることすら不器用でうまく出来ない僕よりも、ヒトナミの方がずっと優秀だって」

 ***

 その日の深夜だった。寮内は静寂に包まれ、足音も聞こえない。そんな中でこもった咳が聞こえる。その主が隣のベッドに寝ているリャムだと気がつけば、ミヤツカは慌てて飛び起きた。

「おい、どうした? リャム」
「ゴホゴホッ、な、なんでもな……ゲホッ、ゴホ……ッ! ゴホッ……ゲホ!」

 しかしいつまでたっても咳は鎮まる様子もなく、リャムは息も切れ切れに。慌ててミヤツカはその背中をさするが、しばらくの間苦しげなリャムは必死の咳を繰り返している。

「まいったな、医務の夜勤呼ぶか?」
「い、いい……だいじょうぶ、だから……ッゴホゴホッ! ゲホッゴフッ 」
「それ大丈夫じゃねえだろ、ゆっくり息してみ」
「は、はぁ……ッゴホゲホ……ッ、ふ、ゴホケフ……ッ」
「うん、上手、ゆっくり」
「ふう、……ゴホ、ケフッ……う……ああ」

 少しずつ咳を残して、リャムはようやくいつもの呼吸を取り戻した。涙を浮かべたその瞳、落ち着いた様子にミヤツカは胸を撫で下ろして彼の癖のない髪を撫でた。

「何、風邪でもひいたか?」
「いや、違うんだ。小さい頃風邪をこじらせて以来気管支が弱くて、疲れたりするだけで咳が止まらなくなることがある。うるさくしてすまない」
「何だよそれ、ちゃんと病院行ってんのか?」
「病院は行ってない……市販の咳止めでごまかしてたけど、最近なんだか効かなくって」
「バカタレ、一回ちゃんと診てもらえよ。ひどい咳してたじゃないか」

 猫を撫でている気がする。ふにゃりと疲れたリャムはミヤツカに寄り掛かり、ミヤツカは優しくその身体を支えた。

「もう苦しくないか?」
「ああ」
「まだ朝には遠い、今夜は静かに横になって寝ろよ。疲れてんだろ」
「うん……」

 間も無くリャムのベッドからは静かな寝息が聞こえてきた。すぐに眠ってしまったのだろう、ほっとしたミヤツカは静かにリャムに触れた右手を見る。骨格のひとつひとつがよくわかる、骨張った身体。元々の造りからして細くて小さい。何も言わないリャム、そんな彼の健康についてミヤツカは一人悩んでいた。

「全くさ、どうしたら食べる気になるんだよ」