孤独の群-06帰りたい場所

 リャムがふと目を開けたら、誰かがじっと見つめている。カリン? いや、弟は寮の玄関で見送って、その後……。

「ミ、ヤツカ……?」
「おう、おはよ」
「ここ、どこ……」
「何、覚えてないわけ? ビョーインだよ、病院」
「びょ……?」
「全くさあ、何だよお前。気管支はひどい炎症起こしてるし栄養失調に貧血から過労で熱まで出してる。こうなる前にしんどいとか自覚なかったのか?」
「別に普通……」
「普通だったらこうやって病院に担ぎ込まれないだろうが」

 クリーム色のカーテンに囲まれたベッドの横でため息をついて腕を組み、眉を寄せたミヤツカ。リャムが左腕に違和感を感じて見てみれば、太い点滴の管が刺されている。ひりひりとした喉は痛い。

「医者が帰っても二、三日はゆっくり寝てろって。それが無理なようなら入院しろって言ってたけど?」
「……帰る、帰りたい」
「横になっていられるか?」
「前向きに検討する……」
「寝てますって指切りしろ」
「……っ、うー……寝て、ます」
「よし来た」

 しばらくして靴音を立ててやって来た医者はあまりいい顔をしなかった。でもリャムはこんな知らない病院よりも寮の部屋に帰りたい。ミヤツカと過ごす、あの部屋へ。

「本当はあまり帰したくないんだがね。君は無理をするタイプだろう? ここまで身体を壊す前に、普通はすでにダウンしているだろうに」
「リャムは我慢強いのだけが取り柄なんですよ。でも、俺同室だしちゃんと見ますから」
「君、よろしく頼んだよ、また倒れたら今度こそ入院で。食事の量は少なくても、きちんと三食とるように。食後には薬を出しておくからね」
「……はい」

 どこか不満げなリャムも、今日は言い返す元気もなかった。体温は高く歩くのもおぼつかない。ミヤツカはそんなリャムの肩を抱いてゆっくりと歩く。少し歩いただけでも息切れするリャムに心配はしていたが、本人は帰りたいと言っている……病院の前にはすでにヒトナミの運転するタクシーが待っていた。
 後部座席に座ったリャムはうつむいて、座っていることも辛そうだった。走り出したタクシーではそっと膝枕になるように、ミヤツカが彼の上半身を倒せばそのまま抵抗せずに横になった。熱を持った熱い頬、明らかに今までの彼の日々の無理が祟っている。食事もろくにとらないのに、勉強ばかりして身体を大切にしないからだ。ミヤツカはそっと手を握る。

「リャム、帰ったらなんか腹に入れろよ」
「だるくて気持ち悪い、点滴してもらったし今日は大丈夫だ」
「勝手にそう言うの決めるな。こんな時期にこんな凍える手してて、本当に大丈夫じゃないんだからな?」
「……」

 自分のために、とか自分を大切に、とか、リャムにとっては本当は勉強よりもそちらの方がひどく難しい。自分についてなんか考えて来なかった、ただ勉強を繰り返し結果を出せば、褒められるし成績順位も伸びる、その数値だけがリャムを測るものさしで裏切らないもの。けれど成長して伸びたのはその数値化された知識だけで、リャム自身はまだ小柄な十七歳。成長期なんて来なかった気がする、その点は今でも身長が伸び続けているミヤツカが羨ましい。
 寮に到着した頃はもう深夜になっていて、食堂は閉まり二人は夕食を食べそびれてしまった。とりあえずリャムを部屋に寝かせて購買でヒトナミからカップ麺や惣菜パン、お菓子の類を購入してミヤツカは一人部屋に戻る。リャムはベッドの上で起き上がって、じっと窓の外を見ていた。

「リャム、カップ麺とクリームパンどっちがいい?」
「今はいらない」
「もう、食べろって言ったじゃねえか。しょうがないな、この野菜ジュースだけ飲んどけ。野菜は平気なんだろ? フルーツ入ってて甘いから美味いぞ」
「……ありがとう」

 パックジュースを受け取って、リャムはじっとそれを見てうつむいた。しかし一向にストローを出す気配もなく、ただ下を向いてため息をつく。

「ミヤツカ、ジュースは明日飲む」
「疲れたのか? ……いいよ、おやすみ」

 リャムは怠そうに布団に潜り、そのまま眠ってしまった。空腹ははずのミヤツカも何となく何かを食べる気になれなくて、シャワーを浴びて今夜は横になることにする。

 ***

 首都には一人でやって来た。リャムが実家最寄駅で家族と別れたのはもう四年も前になる。無事に受験に合格したし、特別奨学金生にもなれた。人の行き交うプラットホームで、幼いリャムは最後にこの街を忘れないでいようと思う。やっと喋るようになった末弟のシャノンは、すぐにリャムを忘れるのだろう。

「いつでも、いつでも帰って来るんよ、リャム!」
「うん」

 音を立てて別れ際の家族を断ち切り離すようにドアが閉まった。ただ涙ぐんだ母の声が響き耳に残る。父は無言でうつむき、弟達は無邪気に笑って手を振っていた。ここに帰ったら負けだ、けれどこの暖かくて優しい場所に出来ることならば本当はもう少しだけ一緒にいたかった。
 しかし今こうして家を出なければこの場所自体消え去ってしまうから、リャムはただ家族を守るために仕方なく離れたのだ。皆ともう会えなくて良い、だからどうか、あの家族が幸せになりますように。
 毎年冬になると母から手紙が届く、今年一年あったことや家族の写真。それを持って電話すれば母は喜び口数の少なかった父もそれなりに話すけれど、末弟だけがよそよそしかった。幼い頃からそばにいない兄に愛着が湧かないのなんて当然だろう。それでもあの子は昔のカリンによく似ている。
 今年は帰ろうかな、毎年そうは思っても結局長期休みは寮で勉強をして過ごして終わって行く。交通費を貯金して四年、いっそのことお小遣いにして自分のために本でも買ってしまおうかとも思ったがそれも何だか虚しくて。結局通帳に貯まって行く残高を見てはリャムは複雑な感情を抱きそしてそのままいつも休みは終わる。

 ***

「まぶしい……」

 カーテンを閉めないで眠ってしまったのか、早朝、降り注ぐ日光が部屋中を照らしていた。誰かが手を握っている、ぼんやりとその手の主を見てリャムは一気に目が覚めた。

「ミヤツカ、な、何?」
「んんん、眠み……ああ、おはよ」
「おはよう……その、手、離して」
「ああ? なんだこりゃ、小せえ手だなあ」
「は、離せってば!」

 振り払ったその手は温かだった。いつからその手を握っていたのか、昨晩の記憶がないリャムには何があったのかわからない。

「お前がうなされてたからだろうが。必死で手を伸ばすから握った、それだけだよ」
「……そう」
「悪い夢でも見たのか?」
「見たような気はするがでも悪いものじゃない。思い出していただけだ。昔のことを」
「ふうん」

 じっとリャムを見つめていたミヤツカは笑った。そして額に触れた後、するすると彼の髪を撫でる。

「熱下がらねえなあ、今日は横になっとけ。休日だから授業もないし」
「ああ」
「飯は食いに行けるか?」
「少し、食べる」

 ゆっくりとミヤツカはリャムの身体を抱き起こして、カーテンを全開に窓を開ける。今日は快晴、真夏が来るまであと少し。