再会の日。
明日は一年ぶりの彼の帰宅だった、東京の大学最後の夏休み。
はるか遠いこの土地でも、すでに夏は訪れている。
「ゴホッ、ゲホン……ッ」
この半年肺を患い寝込んでいる。このことは彼には言ってはいないことだった。
一方、彼からと言えばたまに葉書が届くくらい、それも一行二行で電話でもして声が聞けたら聞きたかったけれど、もう息をするだけでも苦しい、胸が……。
「ゴホゴフッ!うう……」
寝苦しい、今晩は特に……汗ばんで湿った手のひらで夏掛け布団を退けてため息。開いた窓の向こうからは無数の星が夜空を照らしていた。星座とか月の満ち欠けとか、そう言うのに詳しくはない。
彼もいまはるか離れた地で同じ空を見ているのだろうか。彼の見る東京の夜を、僕はまだ知らなかった。
ーーー
人口の減った小さな町で同級生は彼と僕だけだったから、遊ぶときはいつも二人で。高校までは何かと一緒にいることが多く、誰よりも僕らは親しくしている存在だったことは間違いない。だけど、高校三年の春に僕は彼の言わなかった夢を聞く。
「医者になりたいと思っていて、ずっと」
やけにここ数年勉強に力を入れていると思っていた。個人面談では東京の大学も夢ではないと言われたって。その東京の大学に彼は来年一人で行くつもりか……。
「僕は勉強ができるわけじゃないからなあ……」
その頃の僕は進学は諦めて両親の口利きで近所の小さな工場の事務をすることになっていた。身体が弱く寝込みがちで肉体労働には向いていない。静かにこの町で些細な日々をただ楽しむことくらいしか……。そこにはもう彼はいなかった。
「帰ってくるよ、休みには」
「うん」
旅立ちの日、その言葉は嘘だ。ここを離れ新しい世界を作って、友人も増えてそのうち彼は僕を忘れるだろう。なんとなくはわかっている、彼と僕の人生のレールがずれた、もう二度と交わるすことすらないのだろうと。
「君はきっと良いお医者さんになるんだろうね」
「医者に良いも悪いもないよ、ただ救うだけだ」
そんなこと言って、じゃあ君は僕の心を救えるの?僕はこれから君のいなくなる空白を何で埋めたら良いのか……汚い心だ、ただ彼の人生の祝福すら出来ない。
「ごめん……僕は」
それ以上は、口にしてはいけない。
ーーー
「出かけるの?」
「うん、駅まで」
「大丈夫なの、熱は」
「今日は気分が良いから……大丈夫そう」
朝を迎えて、久しぶりに外出着に袖を通した。せっかく雇ってもらった会社の仕事も、寝込むことが多くて休職状態。でも、今日は彼が久しぶりに帰ってくるから。
母は、鶏肉の煮物を作っている、その独特の匂いに少し気分が悪くなる。
「やめなさいよ、出かけるのなんて。真っ青な顔して」
「今日はちょっと、どうしても出かけたいんだ。せめてあいつを駅まで迎えに行きたくて」
「……夕食までには、帰るのよ」
母を背にして、玄関で靴を履く。靴紐がうまく結べなくなっている、弱った手には力が入らなくって……。
「ゴホッ……いってきます」
玄関から出るとすでに日は高く、聞こえてくるのは蝉の声だか耳鳴りだかがわからなかった。道の向こうは陽炎のような……いや、ただの眩暈かもしれない。こんな明るいうちに外に出かけることなんか最近はなかったから。
すっかり痩せた身体を抱えて静かに駅に向かって歩いて行く。時折ふらついて、休みながら……何時の電車だっけ。早く行かないと彼を待ちぼうけにしてしまう。
ポケットの中の折れた葉書を取り出した、今日の日付、到着は午前十一時だって。
「ゲホン、コフッ……はぁ、は……」
暑いなあ、駅までの道のりはこんなに遠いものだったのか……息苦しい。ああ、この道もいつも通ったじゃないか。駅まで二人で話しながら、隣町の高校へ朝と午後の決まった電車で。
「懐かしいな……」
思い出して頬を伝ったものは、果たして汗か涙か……。
ごめん、会いたい、早く。
ーーー
踏切の音が耳を貫くように鳴り響いて、僕は遠い線路の向こうを見た。駅のホームのベンチに腰掛けて、ひとり思わず胸が高鳴っている。この電車も利用者が少なくもう車両は二両しかなくなってしまった。今後はいま以上にもっと廃れていってしまうのだろう。彼はこの景色を東京とくらべていまどう思っているのか。
ベルが鳴ってとまった電車の扉が開く、ああこんなに凛々しかったっけ。
「……ただいま」
「おかえり……おかえりなさい」
久々の人がこの町に、いま東京から帰郷した。
ーーー
「この公園も変わらないんだな」
「もうすぐ壊して家が建つって話もあるけどね……ゴホッゴホッ」
しばらく会ってはいなかったとは言え、こうして並べばまた昔の空気を思い出す。しかし彼は僕のことを時たま伺うように見つめている。それは僕の咳がなかなかとまらないからで、これでも必死で我慢をしているのだけれど。
「……おい」
「何……ゲフッ!ゲホンゲホ……ッ、ご、ごめん……」
言葉が出ない、話そうとすると咳が出て息が出来ない。僕は両手で口を押さえて呼吸を整えようと必死になるも、次から次に身体を折るほどの酷い咳が。そのとき彼の手が僕の背中に触れた。そっとさすって僕に寄り添う。
「ゆっくり、ゆっくりで良いから息をするんだ」
「ゴフッ、ゴホ……うう、はぁ……ッ」
大丈夫だって、耳元で囁いた。その声に僕は一つの絶望を感じる。彼はもう僕の病状を理解しているのだ。
「……ウッ、ゴホンゴホンッ、ゲフッ……う、ゴボッ!」
熱い。
グッと喉の奥を鳴らすように熱いものがこみ上げてくる、思わず吐き出したそれは白いシャツの袖口を染めた。夏の終わりに美しい彼岸花が咲いている風景を思い出す。パッと散った花びらの形の赤い鮮血。
「……ッ、ゴフゴボッ!……ハァッ、アア……」
咳はそれでもなおとまらずに、僕の肋骨が折れそうなくらいの勢いで、シャツはもう袖口から胸元まで赤く血で汚れていた。
それを見ても彼はなにも言わなかった、でもその密やかに震える呼吸を僕は知っている。
せっかく会えたのに、申し訳ない、……でももうその言葉すら声にならなくて。
ーーー
「落ち着いたか?」
「……うん、やっと息が出来るようになった」
「そうか」
帰宅するまでの記憶が朦朧としていて覚えていないが、たくましい身体に背負われていたのは覚えている。彼のよそ行きのシャツを汚してしまって悪かった。背負われて帰宅した僕を見て母が慌てた顔をしてバタバタと足音をたてて布団を整えに部屋へ。
しばらくの後に呼ばれてやって来た往診の医者は表情を変えずに淡々と診療して、この僕の行く末を教えてはくれない。それでも希望があるのならば、愛想笑いの一つもしただろうけれど。
「……なぜ俺にひと言言わなかった」
「言ったらすぐに帰ってきてくれたの?」
「……」
「ごめん、意地悪な言い方をして」
そっと彼が手を伸ばした、僕の口元にこびりついた血の跡を拭ったのだろう。そしてそっと僕の頬に口付ける。
「だめ、汚い」
「汚いものなんてないよ、お前の肌は冷たく白い」
「君はいま……絶望しているの?」
「しないわけがないだろう」
東京へ行ったこと、そして距離をとってしまったこの一年のこと、そのまま絶望すると良い。そして僕をどうか忘れないで。
「俺はもうこのままこの町にいようか」
「やめたほうがいい、君の人生だってあるだろう?」
それでも、君がここに残ってくれるというなら……だめ、そんなことは夢の話だ。人の夢は叶わないから儚いって書くんだよ。
「息ができないときに、君に触れることが出来たから……僕はきっと幸せものなのだろう」
「……」
「生きても百年、終わりはいつか訪れるね」
「俺を待っていてくれるか?」
「待つよ、どこでだって」
それはもうこの世ではなくとも。
「俺にとってお前は唯一のものだ、いつか必ずお前の元に戻るだろう……。少しだけ時間をくれ、医者になったら病もなにも俺が治してやるから」
「……君が幸せになる方法でいい、いつでも君は幸せであるといいよ」
「お前がいないと息もできないのに?」
「ふふ、息ができないのは僕の方だ」
夕陽の赤が、血の色に見えた。
僕の汚れたシャツの血はもう落ちないのだろうか。そして僕は君の思い出を抱きしめて、静かに今日もこの町で夜を迎える。
(終わり)