早々

 今日は一日体調が良い気がしていたから昼間は縁側でさびれた庭の池を見ながらすごしていた。しかし、そうして身体を起していたのが悪かったらしく夕方になったら熱が出て、咳も止まらないから息苦しい。なに、深夜まで誰もいない家だ。多少うるさくても誰も怒らない。けれど、兄の出迎えのためには目を覚ましていたかった。仕事で出張していた兄が、今夜帰って来る予定。帰って来るのを待ちながら僕は部屋で一人ふせっていた。ひどい咳がやまなくて、どうしても起き上がれない。

「二週間ぶり、元気に、していたかな……ッゲホゴホッ! ゴホッゴフ……、ッ!」

 口元を抑えていた手拭いにべっとりと真っ赤な血が付く。口内の血の味が不快だった。自分でも我慢できないくらい咳が止まらないから、こういうのが最近多い。
 兄は元気だろうか、どうか僕のようにはならないで欲しい。枕元には一週間前に届いた兄からの手紙が置いてある。僕の行ったことがない北の国の小さな春の話、僕は何度もその手紙を読んで兄の目になり、一緒に出掛けた気分になる遊びをした。元気だったらついていけたかな、いや、仕事で行っているのに僕なんかが付いて行ったら迷惑だろうけれど。

「ゲホゲホッ、ゲホンッ! にいさん、はやく……」

 ああ、そろそろ帰ってくるはずだ。色々と話をしたくて待っているのだけれど意思とは逆に熱が上がって朦朧とする。幼い頃から疲れるとよく熱を出す子供だった。しかしその体質は親からも仮病と呼ばれて、看病してくれたのは兄だけだった。辛いなって、優しく囁いて。だけどこの熱はもう、体質だけのせいじゃない。
 厄介な病にかかってしまった。医者は数日おきに往診に来るが、日々がたつにつれてどこか諦めた顔をしていた。この家の住人達は僕の病のせいでうつるのが嫌だと去って行き、いまでは兄との二人暮らし。その兄もいつこの病がうつるかわからない。彼のためを思うのなら、僕はさっさと去るべきだろう。けれど、こうして夜を待っていることだけが生きがいで、兄が帰って来なくなったら僕はもう何のために生きるのかわからない。

「ただいま」

 兄さんだ、あの声は間違いない。飛び上がって布団から駆け出して出迎えに行きたかったが、もう僕の身体にはその体力は残されてはいなかった。

 ***

 すっかり遅くなってしまった。しかし玄関で声をかけても誰も迎えにはこない。そのかわり屋敷の奥からは繰り返しの咳をする声が聞こえていた。それもなかなか止まることがない。時がたつごとに明らかに弟の病は悪化しているようで、もう出迎えにも来られないのか。

「大丈夫か?」

 そっと寝室の襖を開けると弟の痩せた背中が見えた。寝間着の上からでも透ける背骨、以前はここまで痩せていただろうか。その背中が折れそうに震え、咳は一層ひどくなりとまる様子はない。

「に、いさん……おかえりなさ……ッ、ク、ゴフッゲホッ! ッ、ゲポッ!」

 必死の呼吸に背中をさする。長い髪が乱れ寝汗はひどく、もう寝間着はすっかり湿っていた。これは着替えさせてやった方がいいか、しかし熱も高いようで体力を消耗させてこれ以上悪化させるのも可哀そうだ。両手を使って必死で口元を抑えている手拭いを見ればじわりじわりと赤く染みるものが。ああ、もうここまで……。ゼイゼイと胸を鳴らしながら弟は充血した目をして呼吸をしている。咳で呼吸すらもままならないのだ、額には汗がにじんでいた。

「遅くなって悪かったな、お前は夕食は食べたのか?」

 その言葉に弟は黙って首を振る。たべたくない、そう呼吸の狭間で呟いて。そんな日が続いていたのだろう、しばらくぶりに見たその身体は全身骨格が浮いてげっそりと痩せてしまっていた。

「手紙を読んだだろう? 北国にも春が来ていてね、かつてうちの庭にも咲いていた桜が満開だったよ。庭の整理なんてするものじゃなかったな。今年もあの桜をお前に見せたかった。だからせめて花弁を押し花にしてきた。月明りでは良く見えないかもしれないが、ほら北国に咲いた桜だよ」

 手帳に挟んだ小さな花弁を弟は驚いたように大きな目をして見つめていた。そしてやがて涙ぐんで、血で染まった指を差し出す。震える手のひらに花弁をのせると、涙を流しながら何度も嬉しそうにうなずいていた。

「来年は、一緒に行こうな」

 そんな年月、来るはずもない。
 弟がいなくなったら俺はどうしようか。弟を捨てた両親の顔なんてみたくなかったし、想いを寄せる女もいない。もうずっと前から弟のことだけを想い生きてきたのだ。兄弟だけど、おそらくそれ以上に依存している。汗ばんだ額を拭ってやって、口元にこびりついた血も拭いた。必死で呼吸をしながら弟は何か言おうとしているから耳を傾ければ、弟は小さな声で、生きて、と囁いた。
 別れの日は刻一刻と迫っている、お前がいなくて俺にどうやって生きろと言うのだ。庭の桜の花はもう咲かないし、俺の名を呼ぶものもいない。永遠の孤独が待っているだけ。

 ***

 翌年になり、再び春がやって来た。
 結局その後あの屋敷は壊してしまって俺は一人小さな借家暮らし。大きな屋敷は管理も出来ない。一方で仕事は変わらず続けてはいるが、特にやりがいも感じなかった。

「ゲホッ、ゴホッ、……ゴホゴホッ」

 最近咳をすることが多くなった。風邪気味と言えばそうかもしれない、季節の変わり目で寒い朝も多かったから。食欲もなく、軽いものを口にするだけで精一杯。しかしもう生きる理由もないし、それでもいいと思っている。ああ、このまま、どうか……。

「ゴホ、ゴホッ! ゲホンゴフッ!」

 酷い咳に思わずシャツの袖で口を塞いだ。すると真っ白なシャツに鮮やかな赤い血がついていた。そうか……これは、これはお前か。
 弟の迎えがもうすぐ来る。永遠の孤独が終わろうとしている。じわりと浮かぶ涙をこらえて、俺は一人空を仰ぐ。生きる、生きるとも、お前が来てくれるのならそれまで俺は生きるから。
 終わりはどうか早々と、来年の桜は多分見ることはないのだろう。だからそれに代わる景色をただ一人で待つだけだ。

(終わり)