恋詩の終わりに01

 古びた広告のチラシ一枚が夜風に舞う。それを見つけた一人の男は拾い汚れを払って、チラシを折り畳み懐にしまった。痩せて綺麗な顔した青年が、化粧品の宣伝をしている広告だった。男はそのまま何も言わず、疲れた背中を丸めて夜の住宅街に消えて行く……。

 ***

「すみませんでしたっ!」

 今日もミスしたこれで五回め、カフェの新人バイト夏目深生(なつめみお)はテイクアウトの客に対して深々と頭を下げる。注文を間違えられた客は溜息をついて、すぐさまオーナーである店長、早海が慌てて正しい注文商品を持って駆け寄った。そして再び二人一緒に謝って、去って行く客の背中を見送っている。

「深生くんはちょっとおっちょこちょいなのかな?」
「すす、すみませんてんちょぉ……反省はしてるんです。でも俺、すぐ焦って間違えちゃって。ごめんなさいっ」
「うん、深生くん反省できるのは偉いね。これからはもう少し落ち着いて仕事することから始めようか?」

 店長である早海桂都(はやみけいと)は苦笑いだった。でも彼なりに深生が一生懸命に仕事をしようとしているのは理解している。本屋兼カフェ・東京人間、通称カフェトーキョー。都内の駅から離れた静かな街の中でひっそりと今日も閉店時間を迎える。エプロンを着替えながら早海は深生にこの頃の気になることを問いかけた。

「ところで深生くん、アパートの件どうなったの。家賃滞納で追い出されかけてるんでしょ?」
「ああー、ちょっと騒ぎになっちゃってますけど、うん、大丈夫大丈夫です! 来月になったら日雇いのバイトも始めるんで」
「日雇いねぇ……追い出されちゃわない?」
「必死に謝ってます! とりあえず給料入ったら家賃多少払えるんで、大丈夫っす。すみませんご心配かけて」
「そう? 大丈夫ならいいんだけど……あ、このパンケーキとサンドイッチ持って帰って。売れ残りだけどお腹の足しにはなるでしょう」
「ありがたいです! 店長、毎度毎度ほんっとーに感謝です!」

 そうしてほくほくと深生は懐に貰い物を抱えながらバイト終わりに店を出た。その時すれ違ったのは酷く疲れた顔した顔色の悪い無精ひげの男。彼を見た早海は酷く慌ててすぐさま店内に招き入れた。倒れこむようにカフェ閉店後の店内に入ったその時の早海の心配の仕方は相当なものだった。

「リストラにでもあったのかなぁ……」

 じっとその一部始終を見た深生は、その男と早海の関係が気になりながらも帰宅の途へ。アパートはすでにもうガスは止められており、かろうじて出る水で生活を賄うしかなかった。
 翌朝、十時。少し早いが深生はカフェに出勤する。朝から入った水風呂は寒く冷たくていまにも風邪をひいてしまいそうだ。職場でなにか温かいものでも貰おうと、その職場であるカフェにはすでに早海が来て開店のための仕込みを始めている。

「おはよー深生くん。お腹空いてる?」
「ぺこぺこでーす、あっ昨日のパンケーキとサンドごちそうさまでしたっ」
「はは、お役に立ててなにより。朝ごはん食べてないでしょ、一緒に新作のホットサンド試食しない?」
「え、まじですか! いただきます!」

 そこで深生はふと昨晩の男を思い出す。彼は閉店後の店に一体何しにやって来たのか。

「てんちょー、昨日の夜男の人来ましたよね。なんかめっちゃ疲れたかんじの」
「疲れた……ああ、来たねぇ」
「あの人知り合いなんですか? なんかこの世の全てに絶望しているみたいな……」
「絶望か、はは、まぁ間違ってはいないけれど、うん、彼なら今日も来たよ。ほら」

 その時突然カフェの扉が開いた。ホットサンドを食べかけの深生が慌てて振り向けば、そこには昨晩と同じように疲れた顔をしたあの男が。

「おはよう、青泉。少しは眠れた?」
「いや……」
「もう、少しは身体を休ませないと、食事もしてないよね? ホットサンドあるよ食べて」
「……」

 その時、青泉と呼ばれた男と深生は目が合った。クマに囲まれたその目はぐったりと光がなく、思わず深生は言葉に詰まる。

「深生くん、青泉。青泉響哉(あおいずみきょうや)、近所に住んでる僕の友人だよ」
「あ、どうもぉ……夏目深生でーす」
「……」

 青泉は何も言わずに少しだけ頭を下げた。深生もぺこりと頭を下げる、初対面の二人は話も進まず、その間に早海が青泉の分のコーヒーとホットサンドを持ってくる。

「深生くーん、ホットサンドどう? 今日の、チーズにこだわってみたんだよね」
「あ、美味いっす! 相当チーズいいやつ使ってますよね、普段のよりクリーミーで口当たりが優しいって言うか」
「うん、わかってもらえてよかった。今月の目玉はこれで行こうかと思って」
「あ、良いと思いますよ! 人気出るんじゃないですか?」
「そう? やったね」

 楽し気に会話を交わす二人をよそに、青泉はと言うと黙って少しずつサンドイッチを食べている。まずくはないのだろうが、あまり進んでいる様子がない。その姿を見て早海はどこか悲し気に微笑む。彼はそれからしばらく店の席に座って食事をして、開店前に黙って帰って行った。

「……帰っちゃいましたね、青泉さん」
「うーん、一応完食はしてくれたけどやっぱり食欲ないんだなぁ」
「あの人何かあったんですか?」
  
 深生のその問いにしばし戸惑った顔をして、やがて言いずらそうに早海は答えた。

「恋人を事故で無くしてしまってね、それ以来心を開いてくれないんだ」
「……恋」

 未だに恋すらしたことのない十八歳の深生は、その感情をまだ知らない。

 ***

「あ、こんばんはー」

 それから三日の後、再び閉店間際の店に青泉がやって来た。深生がにこやかに応対すると彼は小さな声でどうもと言った。

「青泉、座って。フルーツケーキで良ければ残っているんだ、コーヒーもあるし休んで行ってよ」
「……悪いな」
「ちゃんと食事してる? 毎日ちゃんと食べなきゃだめだよ」

 そうして早海がキッチンに向かって、客もいない店内で青泉と深生は目が合った。深生は話題に悩みながら、先日早海から聞いた彼の深刻な事情を思い出す。

「青泉さん、あのー……」
「なんだ」
「恋人の方、そんなに忘れられないほど綺麗な人だったんですか?」

 その言葉に顔色を変えて青泉が席を立つ。座っていた椅子が音を立てて倒れ、その目は赤く充血していた。

「あ、その……えっと」
「……」

 青泉は何も言わずにそのまま足早に店を出る。慌ててその後を早海が追って走って行った。

「待ってよ、青泉!」

 鈍感な深生でもあまり聞いてはいけないことを聞いてしまったのはわかる。早海とともにあとを追いかけるにしても誰もいない店を空けっぱなしにして行くわけにはいかず、ひとり店内から外を見て呆然とするしかない。

「もしかしてやばいこと言ったな、俺……」

 後悔の深生、しかしその日結局青泉はそのまま店に戻って来ることはなかった。

 ***

「あの子の話は青泉には禁句だから、ちょっとまだ傷は深くて」
「お、俺、悪かったと思っています!」

 翌日の開店前、今日も仕込みをしている店長早海に深生は思いっきり頭を下げる。しかしそこに青泉がいるわけではなく、謝罪しても届きはしないが。

「青泉と付き合ってた人……モデルさんだったんだ。多分君も知っていると思うけど、清滝梢(きよたきこずえ)、名前聞いたことない?」
「あっ知ってます、化粧品の広告とかに出てた」
「うん、綺麗な子だったよね」
「……でもあの人男性じゃないですか?」
「うーん、まぁそうなんだけど、そう、そうなのそう言うこと」
「あ、ああ……?」

 その日の店は繁盛していた。冬も近い多少の寒さに温かい飲み物を求めてやって来る客が多く、新作のクリームホットキャラメルラテは何度作ったかわからない。閉店後、深生と早海はキッチンを片づけながら店内の掃除をしていた。

「おつかれ、深生くーん」
「いやー、人多かったですね」
「うん、うちの店にしてはめずらしいよねぇ。何か飲んでく?」
「甘いキャラメル酔いしました、今日は麦茶でも飲んで寝ます」
「あはは、気持ちわかるかも、おつかれ」

 今日はサンドイッチは余らなかった。深生はなけなしの小銭でカレーパンをコンビニで購入し、食べながら帰っていると正面から見覚えのある猫背の男。深生は思わず食べていたパンを全て飲み込んだ。

「あ、青泉さん……!」
「……」
「あ、ああのっ! すみませんでしたっ!」

 夜道を歩く青泉に向かって深生の声が深夜の住宅街に響く。

「……なんだよ、大きな声で」
「聞きました、店長から」
「……」
「お相手の方、綺麗なモデルさんでしたよね。見たことあります人気だったし……で、でも! その、男同士でもいいと思いますよ、俺! 好きになったらそんなの関係ないと思うし、俺はあいにく恋もしたことないからわかんないんですけど、でも本気に好きになったらそれはそれで……」

 沈黙が続いた。夜道では車のタイヤの音が遠くから響いて月明りが酷くまぶしい。しばらくして、青泉は軽く噴き出した。

「ふ、……変な子供だな、お前」
「は、はい……」

 笑ってくれた、深生の言葉に。その日は二人そのまま別れる、青泉は怒ってはいなかったし深生を責めるようなこともなかった。しかし次に会ったのはそれから一週間以上たった日のことだ。

「みお、く、深生くん! ちょっと休憩室開けて!」
「わっ店長何があったんですか……って、え? 青泉さん?」

 店の出入り口の掃除をしていた早海の腕に意識を失った青泉が抱きかかえられている。真っ青な顔で血の気はなく、息をしているのかもわからないような……。

「だ、大丈夫なんですか?」
「休憩室で休ませよう、ソファに寝かせるから荷物どけてくれる?」
「はいっ」

 幸いにも青泉はすぐに意識を取り戻した。しかしあまりに気分が悪そうで手指末端の色も悪い。早海は店からホットミルクカフェオレを持ってきて、青泉の冷えた身体を温めるために飲ませる。

「……この一週間ろくに食べ物を食べなかった」
「どうして」
「起き上がるのも面倒で、水だけ飲んで生活していた気がする」

 その言葉通り、青泉はすっかりやつれて青白い肌は荒れくちびるも白くかさついている。明らかに栄養不足なその顔を見て早海は説教する勢いで問いただした。

「そう言うときはどうして僕を呼ばないの! スマホくらい手元にあったでしょう?」
「……声を出すのも、疲れてしまって」
「青泉、お前に何かあったら心配する人間がいるのを忘れるなよ」

 開店時間になったため早海が店に戻り、その間深生と青泉が二人きりになる。寂しそうに休憩室から窓の外を眺めている青泉に深生はそっと話しかけた。

「あの、青泉さん、東京でも綺麗な街ってあるんですね」
「……都外からやって来たのか?」
「田舎です、随分田舎の小さな街。なのにここより治安悪くて荒れてて自然もろくになくって、だから上京してこの街に来て驚きました。もう戻らないつもりです、しばらくはここにいようかと」
「お前も一人なのか」
「一人っすよ。なにしろ俺、家出ですもん」
「ご家族は心配してるんじゃあないのか」
「はは、そんな家族だったらそもそも家出してません」

 ***

「えっ」
「はは、驚いた、そうなんだよ。本人このこと言うと嫌がるけどね」

 青泉がソファで眠り、店に戻った深生に早海が打ち明けたのは青泉の職業が小説家だと言うことだった。

「最近新作出してないけれど、あれでも有名な新人賞獲ってて。でも君みたいな若い子は知らないかな。随分と前の話だから」

 そう言って店の本棚の一角から一冊の単行本を取り出して深生へ。

「売り物だけど、あげるよ。読んで青泉に感想でも聞かせてやって。彼がまた小説を書く気になれるように」

『うたのおわりに』と題されたその小説を休憩時間に深生は読んでは見たものの、随分と難しい文章でなかなか内容を理解することが出来なかった。そこで深生は目を覚ました青泉のところに行って、小説の解説を聞こうとする。青泉は驚き、そして苦笑した。

「原作者に読めないからって解説を聞くか……」
「すみません、俺難しい話ってわかんなくって、でもこの本は読んでみたいって思ったんです。青泉さんのことが知りたいから」
「俺のことを?」
「ねえ、もっと元気出してくださいよ。そんないつまでも悲しい顔しないで」

 その瞬間青泉は触れた深生の手を払う。冷たくて骨ばった手のひらだった。

「お前に何がわかるって言うんだ……!」

 そう言って立ち上がるも立ち眩みを起こして青泉は音を立てて床に崩れ落ちる。

「あ、青泉さん!」
「……うるさい、さわるな」

 ***

 その日の晩、深生はスマホで清滝梢のことを検索した。なんて美しい青年、しかし彼はモデルにしても痩せすぎている気がする。仕事中の転落事故で亡くなったらしい。

「二十一歳か……まだ、若かったのに」

 笑顔の梢の写真を見ながら再び深生は青泉の小説を読むことに挑戦した。難しい言葉をひとつひとつ調べながら。深生の心の中ではつづられた青泉響哉のかつての言葉が重くのしかかって行く。 

 ***

 翌日、カフェ東京人間前にてバイトが休みの深生が一人の男を待っていた。開店直前のカフェにその男がやって来たのを見て、深生は大きく手を振る。

「おはようございまーす! 青泉さんっ」
「なんだ……大きな声で」
「小説、読みました!」

 そう言って深生は付箋がいっぱいに貼られた小説の単行本を鞄から取り出す。

「スマホで全部わからない言葉は調べたんです。これは好きだった文章に付箋を貼って、俺、小説初めて読んだんですよ。面白かったです、学校の勉強もろくにしてないんですけど、面白かったって思いました!」
「……そうか」
「なんだか読めば読むほど悲しい気持ちになって、青泉さんのことが少しわかった気がします。寂しい小説だなって、その」
「これは俺が十年前に書いた小説だ。それから八年後俺は一人になった、この小説はまだまだ描写も甘い。この世の本当の不幸を知らない悲しみだよ」
「ずっと悲しいばかりじゃ、生きるのも辛いでしょう?」
「そうだな、多分死ぬまで辛いままだ」

 そう言って青泉はぷい、と顔をそらす。もう言葉はいらない、その感情に深生はまだだと食らいつく。そしてじっと青泉の目を見て問う。

「……俺に出来ることはありませんか?」
「ないね、別に俺の孤独を理解してほしいとも思わない」
「俺は理解したいです! あなたの背中がいつも泣いているみたいだから、放っておけないんですよ」
「お前に何がわかる」
「わからないです、だから聞いているんです!」

 しつこいくらいに感情をたたみかけてくる。そんな深生に青泉はふう、と溜息をつく。ああいえばこういう。まったく、頼んでもいないのに……と。

「全くお前は変な子供だな、帰れよ、話すことはない」
「じゃあ一緒に飯食いましょう。また今日も何も食ってないんでしょう? 店長のサンドイッチ、美味いですから」

 ***

 店内は混雑していた、最近カフェが賑わっている気がする。それは良いことに変わりはなく、今日はバイトが休みだった深生も急遽早海の手伝いをしていた。

「深生くんは座ってなよ、お客さんとしてきたんでしょう」
「今日は混んでるしバイトいないと大変でしょう? 手伝います!」

 そう言って結局閉店まで、ケーキは完売しコーヒーもたくさん出た。深生はくたくたに疲れて休憩室のソファで眠ってしまった。その姿をじっと見ていた青泉は早海に呟く。

「まったく、こいつは変な子供だな。悪いやつじゃあないようだが」

 その表情がいつもより柔らかいのに気がついた早海は、少し笑って答える。

「良い子なんだよ、ちょっと配慮が足りないけど、悪意を持っているわけじゃないから。それはどうかわかってあげて」

 すっかり夜は更けている。青泉響哉は少しだけ、夏目深生に対して興味を持ったそんな夜のことだった。