おかえりの日

 大卒から五年勤めた会社を体調不良で休職している間に、古い友人は医者になったって。久しぶりの冬休み、この街に帰ってくる彼を、俺はどうやって迎えたらいいのだろう。
 一人暮らしのこの家も、もうすぐでていかねばならないかもしれない。日々の過労による体調不良から、未だ回復する気配はなくできることと言えば日々近所のクリニックへ点滴を打ちに行くのみ。
 生きる手綱は離さないつもりだけれど、昔から病弱で病院関係においては恐ろしい記憶しかないので、なかなか思ったことを言えない。処方されてる鉄剤が合わないなんて言ったら、そもそも食事を残す俺が悪いって怒られそう。
 一方で友人は、牧島は、どんな大人になったのだろうか。無口で勉強が得意だった、中三で転校してからはお互いたまに携帯でやり取りする程度。でも、悪いやつじゃないんだ。その顔が怖いって周りから陰口を叩かれていたが、俺は彼を数少ない大切な友人だと思ってる。生まれて十五年間の幼なじみだった。そんな彼が帰ってくるって。みたことのない東京の話とか、聞かせてもらおうこの年月を……。
 約束の前夜、明日の準備に昼間に買い物へ、そして家を片付けたりしたせいで力尽きて寝込んでしまった。起き上がるとめまいは酷いし、立てば立ちくらみで歩くのがこわい。でも、せっかくの再会を楽しみにしていないわけじゃないから、せめてもと横になっているのに目が冴えてしまった。朝起きたらこの布団も畳んで片付けないと……ワンルーム、ここ数年誰もよんではいなかった。
 牧島と育ったのは県内の違う都市。まあ東京に比べたら現住地と生育地、どちらが都会かなんて誤差の範囲。休職になったとは言ったけれど、ここまで寝込んでいるのを家族は知らない。心配させたくないし、妹が今度結婚するから。でも、俺は無事妹の結婚式に行けるのだろうか。
 結局眠れない夜を過ごしてしまった。布団を畳んだらしばらく動けなくなって息が切れる、いやこうしている場合ではない、牧島を迎えに行くのだ。
 この体調で、とは思うけれど、この家はわかりにくい位置にあるから。冬の終わり、多分そろそろ電車も到着するのでは。
 必死で着替えて、玄関まで。
 その瞬間に、目の前をちらちらと砂嵐が襲う。これ倒れるやつかもしれない。気持ち悪い、でも一人暮らしで助けは求められないしなにより待ってる、牧島が……それは重々承知の事実だが、だめだこれもう起き上がらない。

 ***

 インターフォンが、うるさい……新聞の勧誘か?
 いらないってこの前言ったのに、しかし向こうもあきらめないし。その時ふと時計を見たらもう牧島との約束時間が過ぎている。しまった、いつの間に意識が落ちていたのか。ゆっくりと起き上がってとりあえずインターフォンを鳴らすものを応対するためにドアを開ける、しかしそこにいたのは新聞屋ではない。

「えっ」
「……久しぶり」
「なんで、牧島」

 ***

「時間になってもこないし、住所聞いてたからタクシーで」
「ごめん、迎えに行く約束してたのに」

 雑然とした部屋でとりあえず、テーブルに向かい合わせになって座る。先程からのチラチラと牧島の視線が気になる。久しぶりの牧島は昔と全く変わっていない。笑いはしないが、怒りもしない。基本的にはいい奴なんだ。

「あ、何か飲み物を用意するよ」

 おもてなしようのジュースを二本。夜になったらワインでもと楽しみに買ったそれを振る舞おうと席を立ったら、途端足から力が抜けて座り込む。ひどい立ちくらみは、意識を飛ばすのも時間の問題で。

「純、そのまま頭下げてろ」
「ま、牧島……」
「無理してたよな、さっきからあまりに顔色悪いから……」
「ご、ごめんその」
「布団を敷いた方が良い。横になって、落ち着くまで……積もる話はそれからだ」

 ***

 手のひらが汗で湿っている。牧島は横になっている俺の薬の整理をはじめた。

「貧血か?」
「食事が食べられなくて、でもその薬飲むとさらに気持ち悪くて食事が出来ないから。それを毎度医者に言い出せなくてそんなに薬が溜まってしまった」
「食べられないって……何も?」
「ここ数日は飲み物と点滴で過ごしてる。よくないってのはわかっているよ」

 牧島は眉にしわを寄せる。彼も医者として怒るだろうか。

「困ったやつだな」
「自覚してるよ、俺は情けないって」
「違うよ、医者。今日の様子が毎日のことならば、命の危険もある」
「牧島?」
「この家に純ひとりなんて倒れて頭でも打ったら危ないじゃないか」

 てっきり俺を怒るものだと思っていた。けれど牧島は見たことのない医者に怒りを募らせる。

「牧島」
「純、俺はこの街で医者をするために戻ってきたんだ」

 ***

 それからは牧島の勤めることになった病院で過ごすことになった。貧血も多少改善された、しかしまだ、距離を歩くのは辛いけれど……。

「あ、牧島。じゃなかった、牧島先生」
「先生はいらない。気分はどうだ?」
「少し歩けるようになったよ」
「出歩くときは誰かに言って。一人で歩くのは危なっかしいから」

 すっかり医者の顔になって……。
 牧島の背後の窓からは、遠い海を望む水平線が。休職をせざるを得なかった俺と、夢を叶えて帰ってきた牧島。俺は何をしているのだろう、結局もう一人では歩けない身体をして。

「純?」
「俺はお前が羨ましい……」

 涙まで浮かんでくる、夢はないがせめて一人でもちゃんと生きていきたかった。そう打ち明けると、一人で生きている人間なんかいないよって、牧島は答える。

「生きる目標を持つと良い。なんでも良いよ、望んでいることを」
「……牧島と、窓の外の海に遊びに行きたい」

 牧島と別れて、この期間十年余。昔はとくに会話もなく、放課後に黙って二人で居残り教室から日が沈むのを待っていた。そして学校を出てからは二人で家に帰る途中の誰もいない公園で過ごすのだ。そこでも特に会話があったわけではないが、思えばこれはデートだった。

「海くらい、お前が嫌がるくらい連れてってやるよ。だから身体を治すんだな」

 牧島は表情を変えずに言い放って、だまって部屋を出て行った。
 
 ***

 それでは、なあ牧島。
 今度の夏は、二人で過ごすと言う予定で構わないか。ならばおかげで俺はあと少しだけ、生きている理由ができた気がする。

(終わり)