ねむりて。

 痩せたい痩せたい痩せなければ痩せたくて痩せないと……。
 誰にも価値を与えてもらえないと思った、ここにいてもいいよってそんな言葉、言われたことなんてなかったから。

「ゲホッ、ゴフゴホゲホッ……え、ぇっ」

 昼休みでも一階の図書室近くのトイレには誰も来なかった。せっかく食べた昼食を吐き戻す。納得して食べたもののはずだったが、言いようのない罪悪感と後悔が押し寄せてきて、体内に吸収させることが出来なかった。ああ、これでこの身体の栄養はマイナスになる。食べないよりも痩せてしまった、けれどそれは決して後悔するようなことではなく、むしろ彼にとっては喜ばしいことだった。
 体重は日に日に減り続けて行く。特に嫌なことがあった日には何度も繰り返し嘔吐していた。今日はそれほど嫌なことがあったわけではない、ただ、食べることが許せなかっただけだ。食べないことで発散する、他に思い当たらないだけだった。

 ***

 真木ルチカは十八歳の高校三年生。北関東のさらに北にある小さな村で来年には廃校になる予定の高校に通っている。校内にはもうルチカの学年しかおらず、非常にがらんとして学生が通うにしては薄気味悪いほどの静寂に満ちていた。
 摂食障害、拒食の症状。
 ルチカの痩せ方はすでに通院が必要なものだった。しかし彼は病院に行くことは太らされるからと拒否している。太るくらいなら死んでしまったほうがましだ。
 それは普通の家庭なら両親が黙ってはいないところだったが、ルチカの家庭は子供に対する愛情がすでに冷めきっていた。彼の母親は弟の貴都(たかと)ばかりを可愛がり、ルチカに対しては愛おしいの一言すら言わない。それはルチカの物心ついてからのことで、理由を知ったのはここ最近のことだ。
 ルチカは母の実子ではなかった。ほんの幼い頃に両親が再婚していたのだ。ルチカは父の前妻の子供で、母と血が繋がっているのは貴都の方。だから母は貴都にばかり手をかけて、ルチカのことには無関心だった。教育面でも厳しく育てられた貴都は、現在地域屈指の私立の進学校に通っている高校一年生。しかしいままでの人生があまりに自由がなく窮屈だったせいで彼は兄のルチカを恨んでいた。
 だからここ数年ルチカは自宅で食事をとることをやめていた。無口な父、ルチカに無関心な母、弟の貴都、彼らはルチカがいるとどこかぎくしゃくとした様子になる。自分がいないほうが彼らは幸せなのだろう。
 日々学校で勉強をしているとか言い訳をしては進んで自宅に帰ろうとをせず、だから一日の食事は学校で少しとるだけ。それも日によっては嘔吐して全て戻してしまうこともある。そんな調子で数年過ごせばその身体はすっかり痩せ細って、学校では最も痩せている高校生になっていた。
 母は気づいているはずなのに未だに褒めてはくれなかったが、誰よりも痩せた姿は特別な気がした。ルチカはこうして体重管理が出来たことでテレビや映画の俳優やモデルの様に痩せている、この世で唯一の価値あるものになれた気がしたのだ。
 痩せているものは美しく、尊い。美しいものは愛される、そんな世間の声が聞こえる気がして、だからまだルチカは痩せることをやめなかった。彼はいつか誰かが見つけてくれる日を待っている。

 ***
 
 ルチカの住む小さな村には他の村とは少し違った事情があった。
 その村出身のものは村から離れると謎の病を発症して死んでしまう。それをたかが噂だというものもいた、しかし実際に亡くなっているものもいたのは確かで、皆、恐れて次第に村から出なくなった。
 ルチカの通う高校は村唯一の県立高校として古くから生徒を送り出しては来ていたが今年度をもって廃校になる。下級生はおらず学校にはルチカの学年のみ。教師も次々に辞めていき、残った最後の担任は岸野黒雪(きしのくろゆき)、五年前に東京から来た物静かで若い男性教諭だ。
 割と閉鎖的なこの村に外部、しかも東京からわざわざやって来た教師。住人は黒雪と距離を置いていたが、ルチカは彼が嫌いじゃなかった。何かあっても大きな声を出して生徒を追い詰めることはせず、悪いことを優しく説得するように注意をする。その姿勢はこの村の大人の中でいちばん穏やかで話の出来る存在だと思っていた。しかし、彼も来年にはこの村を去るのだろう。

「ルチカくん、よく来たね」

 その日の放課後、空き教室で個人面談があった。高校卒業後の進路についての話し合いだ。基本、この村に住んでいるものは高校卒業後この村で就職する。大学に通うものもいたが毎日自宅から通うことが暗黙の決まりになっていて皆、そう遠くには行かない。外に出たら病に侵される、そう信じていたからだ。

「君も進路は就職を考えているの?」
「そのつもり、なんですけど……本当は何もやりたいことがないんです」
「君は商業の科目も優秀だし、事務関係の仕事がむいているんじゃないのかな。いくつか求人は来ているよ。求人票見てみる?」
「いや、その……正直就職して社会人として働くことに恐怖感を感じています。皆、きっと僕なんか嫌いだろうから」
「嫌い? 誰が言ったんだい?」
「言われなくてもわかります。同級生にもそれほど仲の良い生徒はいませんし、母は僕を嫌っている。そんな僕が社会に出たらきっといじめられる……」
「私は君のことが好きだけどね。いつもまじめだし、皆が気付かないことも気付いている。放課後、一人残って掃除をしていることを知っているよ」
「それは、美化委員だし。気づいた僕が片付けたらすむことなんです、だからそれで」
「良い子だね」
「そう言ってくれるのは先生だけです……」

 本当は、彼のような教師になることも悪くないと思っていた。いつも優しくて生徒を救う存在。それはルチカが誰よりも救われたかったから、思っていただけかもしれない。

「大学進学も可能だよ。まだ受験は先だし、君の成績なら推薦もとれる。通える範囲の県内の大学、いくつかパンフレットあるけどあげようか?」
「大学進学は気にならないわけじゃないけれど、多分親はお金を出してはくれないと思います。僕のこと、嫌いだから」
「……だからお家ではご飯食べないの?」
「え……?」
「その身体じゃ、一日一食も食べているかいないか。普通ならご両親が許さないだろう。でもそんなに痩せてしまっているということは」
「はい……食べていません」

 それからしばらく沈黙は続いた。夕陽の色に染まって行く教室内は部活動をしている校庭の掛け声が小さく聞こえていた。そのどこにも所属していないルチカ、学校でも家でも孤独だった。そんな彼を黒雪は理解しようとしている。

「こまったね、でも、私は君を見捨てることはしないから。この学校最後の生徒たちを皆、正しい道に送り届けるよ。それが教師としての仕事だからね」
「先生……」

 こんなに優しい黒雪を作った東京とはどんな街なのだろう。知りたい、彼を知りたい。ルチカは黒雪についてもっと知りたいのだ。その感情はいつしか担任教師と生徒の壁すらも越えて、ルチカの今後の生きて行く糧にもなって来ていた。岸野黒雪、その存在が。

「また面談の機会を作ろう。君が満足する道が見つかるまで私は付き合うよ」
「はい、あっあの、ありがとうございます……」
「担任だからね、大丈夫だ」

 今日はもう下校する時間になってしまった。黒雪が席を立ち、ルチカも立ち上がった、その瞬間視界が揺れ目の前が真っ暗になりルチカはそれからしばらくの間の記憶がない。

 ***

 たくましくて、どこかあたたかい感触がする、横になったルチカの身体には自分のものではない上着が掛けられて、誰かの膝枕の上にいるようだった。何て優しい匂いだろう。ぼうっとしながら上を向くと見覚えのある顔が心配そうに見守っている。

「せ、せんせい……?」
「ああ、よかった。気が付いたね」

 気が付けばルチカは黒雪の膝を枕にして教室の床に横たわっている。黒雪はほっとしながらも少し困った顔をしていた。優しい手で彼はそっとルチカの頬を撫でる。

「倒れたの、覚えている?」
「え……僕、倒れましたか」
「ひどく顔色が悪かったから心配したよ、ほらこんなに冷や汗かいて」

 黒雪の手のひらが濡れていた。汗とともにうっすらとした気持ちの悪さと強い耳鳴りが聞こえている。倒れたのは間違いないらしい。
 
「私の車で帰ろう、準備するからちょっと待ってて」
「そ、そんな、歩いて帰れます……」
「また倒れたりしたら大変だから、本当はお家の方に迎えに来てもらった方が安心なんだけどそれは君の気がすすまないのだろう?」
「……はい」

 ゆっくりとルチカを支えながら立ち上がった黒雪はルチカを空いている椅子に座らせる。そして校内の鍵を閉めてくるから待っているようにと言って教室から出て行った。黒雪の上着はルチカの肩に。
 大きな上着だ、彼は背も大きいから穏やかな顔に似合わず体格が良い。上着にはまだ黒雪の温もりが残っている気がする。もう冬は終わったというのにひどく寒気がして、ルチカは黒雪の上着を抱きしめた。

 ***

 黒雪の車はよくある白の軽自動車だった。この辺りは田舎だが道が狭くて、一人暮らしながら小回りの利く軽がいい。ルチカも免許をとれる年齢ではあるし、同級生にも就職の事情で自動車免許を取っている者もいたがルチカは車の運転に不安があった。
 事故を起こしてしまいそうで怖い、なにより不器用なルチカは自転車に乗るのがせいぜいだった。しかしこれからもこの村で暮らして行くのなら免許はあったほうがいい。電車は朝晩の通勤通学時間帯に本数があるだけで、昼間は一時間に一本あったらいいほう。バスは来ない時間帯もあった。

「横になっていたほうがいい?」
「あ、いえ、もう気分も楽になって来たから座ったままでも大丈夫です」
「家は……住宅街のむこう?」
「住宅街を抜けて空き地のある、川沿いの一軒家です」
「ああ、なんとなくわかる。歩いたら二十分はかかるところだね、車で良かった」
「ごめんなさい、先生。迷惑かけて」
「別に私も家に帰るだけだからね、車だし別に構わないよ」

 夜の住宅街を走る車は無音だった。音楽を聴いたりはしないのだろうか、ルチカに気を遣っているのか。この静けさは……何か話をしたほうがいいのか、迷っているうちにぽつりと黒雪がつぶやいた。

「私もね、東京の実家ではうまくやっていけなかったんだ。兄が一人いるんだけど、優秀な人でね。両親は兄ばかりかわいがって、私にはきつい言葉を突き付けるだけだったよ。まあ、学校の成績も良いわけじゃなかったからね。だから早々に自宅を出たかった、大学で何とか教員免許を取って数年は教師をしながら都内で一人暮らしをしていたんだけど、兄が結婚してなにかと実家で集まることが多くなって……兄の子供たちは可愛かったけどね、私の居場所はすっかりなくなってしまった。だからこの村にやって来たんだ。ここまで距離が離れてしまえば、もう集まりにも理由をつけて行かないことが出来るから」
「先生も、お家に居場所がなかったんですか……」
「そうなるね、だから君の気持ちもすこしわかる」
「僕も弟がすごく優秀なんです。母は弟しか興味がないみたいで」
「こんなこと教師が言うことじゃないけどね、両親に求めてしまうと辛いだけだから。自分の世界で生きて行くほうがいい。いっそのことこの村から出て行っても良いんじゃないかと思うんだけどね」
「でも先生、僕らはこの村から出ると病を」
「そんなこと、本当にあるのかな。思い込みってこともあるんじゃないかと私は思うよ。よそ者が勝手なことを言って、と君らは思うかもしれないけどね。恐れていたら、いつまでたっても救われない。君はこの小さな村で居場所もなくこれからも生きて行くの?」
「それは……でも、僕はきっとどこに行っても一人になってしまう。都会に行ってもきっと受け入れてもらえないと思います」
「じゃあ、私と一緒に暮らすかい?」
「え」
「君のこともっと知りたいんだ」

 驚いたルチカ、黒雪は穏やかな表情でそれきり何も言わなかった。本心だろうか、でもそんなことを冗談で言う人のようには見えない。

「明日、体調が良かったらいつものように学校においでね」
「送ってくださってありがとうございました。学校、ちゃんと行きます」
「うん、待ってるよ」

 家でひとりでいるより学校で黒雪と過ごしたい。彼のことを詳しく知っているわけではなく、それも教師である顔しか知らない。でも黒雪はこれからもルチカを救ってくれそうな気がする。彼の穏やかさにルチカはどこか惹かれていた。
 帰宅した家ではもうドアの鍵は閉まっていた。ルチカが帰っていないことは家族皆わかっているだろうに……仕方がないので鞄の中から鍵を取り出して開ける。黒雪の車はもう遠くに行ってしまっていた。

 ***

 深夜、隣の貴都の部屋から大きな音で洋楽ロックをかけている音が聞こえる。母が何度も怒鳴り込むように貴都を叱りつけているが、音楽はやむ様子がなかった。言い争いにそのリズムと大音量が布団をかぶったルチカを不穏にさせる。
 多分貴都はわざとやっている、ルチカを追い詰めるように。ルチカは次第に気分が悪くなり、堪えきれなくなり二階にあるトイレに駆け込んだ。

「うぇッ! げ……ぇえ……ゴホ、ゴホッ……」

 食べていないのだから吐くものなんてもう残っているはずはなかった。それでも吐き気は止まらなくて、トイレの中で嘔吐を繰り返す。胃がぎゅうと縮まって、絞り出すようにこみあげてくるものはもう水分しかない。
 やがてずるずると身体を支えられなくなって、ルチカはトイレの床に倒れこんだ。身体に力が入らない。目の前がかすんで、気も遠くなる中、それでもルチカは心の奥底でさらに痩せていることを期待している。そんな自分のおかしさは十分にわかっているつもりだった。

 ***

 あまりに食事を食べないせいか、長い時間続けて眠ることも難しくなっていた。ルチカは数時間おきに目が覚めてしまって、何度目かの目覚めでようやく朝になった。身体が重い、起き上がるだけで眩暈がした。
 それでもまだ家族が起きるのには早い時間、ルチカは眩暈をこらえながら着替えを持って脱衣所に行った。そして少しどきどきとしながら下着姿で体重計に乗る。いまの自分を確認して、その瞬間だけはまだ生きていてもいいかもしれないと思う。自身の痩せすぎた身体に危機感はなかった、むしろもっともっと痩せるべきだと。しかしもうすでに身長はほぼ高校生平均なのに対して体重は中学生少女以下の重さしかないのだが。
 脱衣所で満足したらそのまま制服に着替えた。再び部屋に戻り学校に行くための準備をする。
 就職か進学か、高校卒業後の進路は二つの道が提示されているわけだが、ルチカは第三の道を考え始めていた。黒雪とともにこの村を出ること。学校は廃校になってしまうのだから黒雪ももうこの村にとどまる理由はないのだ。仕事がなくなったら彼はきっとどこかにいってしまう、ならば自分も。
 居場所のないこの村にとどまっていても黒雪がいないのなら意味がない。しかし、本当にこの村を出て病を発症することはないのだろうか。噂が噂であると明らかになるのならば、何も迷うことはないのに。死に至る病、黒雪との人生。ルチカはどうしたらいいのかわからなかった。

 ***

「……ひとり?」

 昼休み、教室にいづらくて中庭で過ごしていると学食から出て来た黒雪が来た。ルチカは食事をする気になれなくて野菜ジュースをちびりちびりと飲んでいる。ここのところ固形物が怖い。無理して食べても吐いてしまうのならば最初から食べなければいいと思いいたる。空腹感は感じてはいるもののルチカの心が受け付けなかった。

「お昼それだけなの?」
「大丈夫です」
「はは、大丈夫じゃないのはわかっているよ。食べることが怖いんだね?」
「……」

 黒雪のほうがよっぽどわかってくれる、ルチカの孤独を良く知っている。
 長期休暇を終えて定期テストも終えて季節は秋を過ぎて行った。三年生で進路希望を出していないのはもうルチカだけになってしまった。大多数の生徒は就職先を決めていて、残りの数人は受験勉強に勤しんでいる。なにもしていないのはルチカだけだ。
 両親は何も聞かなかった。そもそも会話がない、貴都はこの頃さらにストレスが溜まっているようで、ルチカの顔を見るだけで殴りかかって来そうな勢いで嫌悪感を示すからあまり家にもいられない。だけどそろそろ放課後を公園や土手で暇をつぶすには寒い季節になっている。
 黒雪は黙って自分のマフラーをルチカの首に巻いた。中庭は日当たりは良かったがさすがに北国、多少の寒さも感じていた。あと一か月もすればもう外では過ごせない。マフラーは黒雪の温もり、ルチカは彼に今後のことを聞く。

「学校が廃校になった後のこと? あまり考えてはいないんだけどね、とりあえずは東京に戻ろうかと思っている。もちろん実家とは離れた場所にね、この村にはもう教師の就職先は残っていなかった。残念だけど、仕方がない」

 ああ、彼は去るのか、この地を。
 ルチカは心が苦しくなって思わず小さく震える。黒雪のいない生活はきっと寂しいものだろう。ルチカは理解者を失って、再び孤独な日々を送るのだ。
 とりあえずは実家から出ることを考えてはいたが何の仕事が出来るのかがわからない。すでにめぼしい就職先はうまってしまって、残っているのは一人暮らしが出来ないくらいの低賃金のものや肉体労働系が多かった。しかし最近は体調不良が一層ひどくなり、ついに体育の授業は見学することになってしまっている。そんな身体で何が出来るのだろう。

「ご両親と話し合っている?」
「いいえ、もともと会話もないし……僕から言い出すのも気まずくて」
「卒業後、ご実家に残るにも一度話し合ったほうがいいね。就職か進学、せめてどちらかは選んだ方があとで後悔しないと思うよ」
「家を出たい。でも僕一人ではきっと生きて行けない……この頃体力が酷く落ちて、学校まで歩いてくるのすら辛いんです。たった二十分の距離を何度も休んで道端に座り込んで、結局倍くらいの時間をかけてしまう。そんな身体ではきっと満足に働けないと思います。ごめんなさい、自分が悪いってことはわかってます」
「別に私は怒っているわけじゃないよ。君が痩せていたいのは見ていればわかる、それを否定する気はない。人間何かにすがらないと生きてはいけないからね。それが君にとっては痩せていることだっただけだろう」

 厄介なことになっていると思っていたのか、両親はルチカの痩せについて何も言わなかった。知らないはずもないしこの身体を見て気づかないはずもない。学校からはルチカが体調不良を起こして倒れるたびに連絡はいっているはずだ。たびたびそう言った出来事はあったのだがしかしそれを両親から指摘することはなかった。
 かわりに貴都に対しては過保護すぎるくらいであり、最近は隣町にある学校への行き帰りを父が車で送り迎えしている。ルチカに関わると機嫌の悪くなる母から父は逃げているのがわかった。事なかれ主義、面倒なことになるのはごめんだと、ただ黙って母の意向に沿っている。実の父親にすら相手にされていない。病院にも行かず、このまま拒食が悪化して行くことはルチカにとって危険でしかないことでもあった。

「先生、僕も一緒に東京に行きたいです……」
「……親御さんはいいって言っているの?」
「特に何も、僕はもういないもののように扱われています。でも家を出たら僕も可能な限り働きます、ご迷惑はかけませんから、一緒に東京に連れて行ってください」

 病の可能性と家庭不和を天秤にかけた挙句のことだった。必ず発症するともわからない病と居心地の悪い家をくらべて、そしてまず思い浮かんだのは黒雪と過ごす毎日。一緒に住んだら、もっと一緒にいられる。それは恋愛感情と言うより子供が親を求めるような、ルチカはただ寂しかったのだ。

「私は君が元気になっていくところを見たいよ」
「……」
「来る? 一緒に」

 思わずうつむいた顔をあげて黒雪を見た。同情ではない、その目は真剣にルチカを見ていた。

 ***

 あと三キロ痩せたいと体重計の数値を見て思った。でも三キロ痩せたらまた三キロ、そういう風に欲はとどまることを知らないのだろう。自分でだってわかっている。鏡に映るのは骨と皮、げっそりと痩せた細い身体。でもそれでもまだ納得できなくて、もっともっと痩せたいと思うのだ。
 まだ太っている気がする、この村で一番痩せている存在になりたい。誰も持っていない唯一のものをどうか手に入れたかった。
 風呂場でシャワーを浴びて脱衣所で着替えていると、父が顔を洗うために入って来た。下着の上からでもわかるほどにがりがりに痩せてしまった息子の身体を見て、少し戸惑ったように目を細めるがしかし何も言わなかった。

「……父さん」
「なんだ?」
「僕、高校を卒業したら東京に行くよ」

 父の動作が止まった。戸惑った顔をしてまじまじとルチカを見る。信じられない、そう言いたいように。

「命を落とすかもしれないぞ」
「ここにいてもきっと同じ、僕はいないほうがいいんでしょう?」
「誰もそんなことは……」
「母さんはきっとそう思っているよ」
「……」

 着替え終えたルチカはそのまま振り返らずに脱衣所を出て行った。父は何も言い訳もしなかった。そんなことないよ、とかそういった言葉をかける事実はないらしい。
 二階にあがり、自室に行こうとしていたらちょうど隣の部屋の貴都が出て来た。じろり、とルチカをにらみ舌打ちする。お坊ちゃん然としていたその姿はいつの間にか髪も染めているしピアスも空いていた。彼の学校は校則が厳しかったはず、学校から何か言われないのだろうか。
 すれ違う瞬間に貴都はルチカの襟元をつかみ、壁に音を立てて押し付ける。無駄な肉すらついていない身体には直に骨に衝撃が来たようでしびれるような鋭い痛みがあった。

「何で家にいるんだよ、顔見せるな」
「……」
「あんたはいいよな、できそこないでも文句の一つも言われないし。なんでそんなに痩せているわけ? 自分はかわいそうだって見せつけたいのか?」
「……高校卒業したら出て行くから、それまで我慢して」
「はは、やっと出て行くんだ! せいせいするよ。もう二度とこの家にもどってくるんじゃねえぞ。お前の居場所はこの家にはないんだから」
「わかってるよ、ごめんね」

 振り払うようにルチカから手を離した貴都はそのまま足音を立てて階段を下りて行った。体格の良い後姿。母に口うるさく言われていてもきちんと一日三回食事をとり、見た目に気を遣って高校生活を楽しんでいるのだろう。日常に不自由さを感じながらも常に友人と連絡を取り合っているのか左手にはスマートフォン、幸せなのはどちらなのか。
 幼い頃は一緒に遊んだこともあった。亀裂は齢を経るごとに開いていって、今ではただ嫌悪感を抱かれるだけ。だけどルチカは貴都が嫌いなわけじゃなかった。いつか彼も幸せになればいいと思う。兄弟じゃなければもしかしたら良い友人になれたかもしれない。
 階下で母が貴都に口うるさく小言を言い、反発した彼が怒鳴りつけている声が聞こえる。そこにあるのは行き過ぎた愛情、ルチカには一生縁がない。卒業までもう半年もない。ルチカは少しずつ部屋の片づけを始めることにする。この村には何も残していくつもりはなかった。

 ***

「ゲッ、えぇ……うぇ、ゴフ……ッ、うえッ、ゲホゲホッ!」

 無性に不安感に襲われて、深夜にルチカはトイレにこもり嘔吐していた。体重はすでにいつ入院を言い渡されてもおかしくない数値になっている。でも、いま入院するわけにはいかない。
 あと一週間したら卒業式がある。それから数日後、黒雪とともに東京へ立つ。いままでのしがらみから解放されて幸せなはずなのにルチカの心は不安定だった。黒雪に捨てられたくない。東京での住まいは黒雪に任せてある。しかし捨てられたら終わりだ。限界まで痩せたら彼はルチカを不憫に思い守ってくれるだろうか。そんな自分を卑怯だな、と思う。
 隈が酷い、げっそりと筋張った首に対して唾液腺も腫れている気がする。どこからどう見ても病人だ。
 トイレを片付けて脱衣所でじっと鏡に映った自分の顔を見ているといつの間にか入口に父が立っていた。いつからいたのか、ルチカは口をゆすいでじっと鏡ごしに父を見る。

「……お前の実の母親はこの村を出て行ってしばらくして、病に侵されて死んだ。風邪をこじらせて咳が止まらなくなり大量に喀血したらしい。治療も間に合わずほんの短期間の出来事だった、それでもお前は東京に行くのか?」

 鏡の中の父と目が合った。ルチカの覚悟を知りたいのだろうか、でもいまさらこの家に残ったとして、母や貴都との関係が良くなることはありえないだろう。これからの人生をそんな家で過ごす父もかわいそうだ。

「いままでありがとう、僕のことは忘れていいから」

 ***

 卒業式を終えて数日後、早朝の駅のホームでルチカは一人不安と希望を抱えて待っていた。もうこの村には戻らない、東京でうまくやっていけるだろうか……病を、発症することはないだろうか。予定の電車が来るまで一時間。黒雪が改札を通ったのが見える。ルチカが手を振ると、彼も手を振り返す。
 荷物は少なく、思い出も全部おいて行くつもりで電車を待っている。ルチカの表情がそんなに不安げだったのか黒雪はそっと優しく頭を撫でてくれた。

「先生……」
「うん、今日からは名前にしようか。君は学校を卒業したし私ももうあの学校の教師ではない」
「黒雪……さん?」
「はい」

 笑顔の黒雪を見てルチカは少しほっとした。大丈夫、きっと大丈夫。この人と一緒なら多分怖いことはないから。
 電車は遅れることなく予定通りの時間にやって来た。がらがらの車内に二人乗り込んで、膝には荷物、向かい合わせのシートに座る。

「わあ……!」

 思わずルチカが声をあげたのはトンネルを抜けた時、桜があまりに綺麗に咲き誇っていたからだ。ルチカの地元ではまだぽつりぽつりと咲いているようだったが、しばらく電車に乗っただけでこんなに風景は変わるものか。感激しているルチカを見ながら黒雪はそんな彼の可愛らしさに思わず笑う。気が付けば電車は都内に入っていた。

 ***

 黒雪が選んだ街は駅前が賑やかな都心に近い場所だった。憧れの渋谷新宿まで三十分もかからない。今度休みの日に一緒に遊びに行こうとルチカは黒雪と約束する。駅からしばらく歩くと都心に近いとは思えないのんびりとした住宅街があった。そこのアパートの一階、部屋は二部屋あり築年数にしては綺麗なアパートだった。家具は黒雪が村で一人暮らししていた時のものを送ったらしい。

「この部屋は日当たりがいいからリビングにしよう。狭くて畳張りでソファも置けないのにリビングだなんておかしいけどね」
「いえ、とっても明るくて居心地の良さそうなお部屋です!」
「この部屋を見た時、君とゆったり過ごす風景が思い浮かんだんだ。気に入ってくれてよかった」
「黒雪さん……」

 それから黒雪は自転車で十五分の都立高校の教師として新たな生活を送ることになった。ルチカは週に二回ほど近くの老人ホームでリネン交換のバイトを始める。名前を覚えた利用者がルチカに優しくしてくれるのが嬉しい。もう少し体力がついたらバイトの日数を増やして、お金を貯めていつか通信制の大学に通いたいという夢が出来た。
 バイトのない日は家で休みながら黒雪のための食事作りを勉強しだした。自分ではまだ抵抗があって積極的に食べることはしなかったが、帰宅した黒雪が喜んでくれると嬉しい。彼は毎日なにかしらのお土産を持って帰ってきてくれる。

「ルチカ、ただいま」
「黒雪さん、おかえりなさい」
「はい、今日のお土産。学校近くの古本屋で買ったんだ、料理のレシピ集。ルチカ、最近料理頑張っているからね」
「ありがとうございます。ふふ、僕もっといろんな料理作りますよ」
「今日は何か食べた?」
「夕飯の味見をしました」
「それだけ? もう少し食べないと」
「バイトの日は食べます、身体動かすから」

 ルチカの拒食は相変わらずだった。でも東京で黒雪が作ってくれた居場所を手に入れたせいか嘔吐する回数はめっきり減った。食べることが怖く感じてしまう日もあったが、適度な空腹感を感じ抵抗なく食べられる日もある。少しずつ回復に向かっているようだ。ルチカは生きることが少しずつ楽しくなってきた、村を離れてからは二か月ほどたっている。

「……あれ?」

 そんなある朝、ルチカは空腹感が全くないことに気が付く。いつもは食べなくてもそれなりの空腹感があって、食事の恐ろしさと戦うような日々を送っていたのだが、今日は不思議と食べることに対して何も感じなかった。食べたいとも思わないし、そもそも食への執着が全くない。すっきりしている、そういった表現がぴったりとしたような。
 その日のルチカは夜になっても何も食べなかった。夕食の味見だけはしたが飲み込むことはせず吐き出してただぼんやりと黒雪の帰りを待っている。やはり空腹感は感じない。
 これ幸いとそれから何日もルチカは飲み物だけで過ごした。一週間たっても空腹感は感じない。ただあまりにも食べないから頬はこけ、首から鎖骨に至っては酷くくっきりと筋張った骨が目立ってしまっている。顔色も血の気がなく、貧血と思われる症状で立っていられない日もあった。そのせいでバイトも休んでしまう、でも、食べたくない。

「ルチカ!」
「……は、」

 気が付けば焦った顔をした黒雪がルチカを見つめていた。黒雪の腕の中でルチカは目を覚ます。

「え、あの……」
「倒れたんだよ、覚えていないのかい?」
「たおれた……」
「ずいぶんと目を覚まさないから心配した、気分はどう?」
「なんだか……ぼんやりする、耳鳴りが」
「……前にもこんなことがあったね。でもあの時よりももっと身体が痩せてしまっている気がするよ。そんなに食べられないのなら、病院に行こう」

 あれは高校時代のことだ。思えばなんて遠くに来てしまったのだろう。実家から離れて黒雪と過ごす日々は平和なもので心が穏やかに過ごせていた。しかしどこかうすぼんやりとした不安がある。その原因を考えようとするが、少し身体を動かしただけでくらくらとした眩暈がしてあまり物事を深く考えられない。

「病院は、いい。体調が悪いわけじゃないから」
「だって倒れたじゃないか。真っ青な顔して……こんなに痩せているし、どこか悪いのかもしれない」
「食べなくても平気なんです。だから大丈夫、元気ですよ、僕」
「ルチカ……」

 どう見ても体調を崩しているのに平気だという。そんなルチカが黒雪は不安でならなかった。しかしいくら促しても病院に行こうとしない。それからさらに一週間がたった。黒雪が食事をすすめてもルチカは決して食べようとはしない。大丈夫だ、と繰り返して。
 やがてその身体はさらに痩せて、見るからに痛々しく限界が来ているようにしか見えなくなった。まるで骨格標本。そしてさらに困ったことになっている。

「熱が下がらないな……」

 一日の終わり、夕方を過ぎるとルチカは熱を出すようになった。貧血もあるようだがやたらと怠そうにしているので体温計で測ってみたら微熱が。数日様子を見てはいるがなかなか下がる様子がない。でも朝になると下がっていることが多いのでルチカはやはり病院には行かないままだ。
 一目見ただけで重病人に見えるような顔色に痩せ方、いま病院に行ったら即入院になり退院までは時間がかかるだろう。それを気にしているのかもしれない。でももう何日もバイトに行けていないし、日常生活を送るのも辛そうになってきていた。
 もう限界だ、黒雪は来週末に休みをとって一緒に病院に行くことを告げる。ルチカは困った顔をしたが黒雪が譲らないのでしぶしぶ了承した。

「病院で健康だと言われたらそれで安心だろう? どこか悪くても治療をしてもらえばきっと良くなるんだから、いいじゃないか」
「心配しすぎですって、黒雪さん。僕は平気なのに」
「平気に見えないから言っているんだよ。とにかくそれまではゆっくり横になって、無理をしないように。食事も作らないで良いから」
「でも、黒雪さん仕事で疲れて帰って来るのに」
「一人暮らしは長かったんだ。自分の面倒くらい自分で見られる、君の世話だって」
「迷惑かけてごめんなさい」
「そう思うなら早く治療を受けて元気になってくれよ」

 ルチカのことだけを考えている黒雪。申し訳ないが幸せだった。自分のことをこんなに大切に思ってくれる人がいる、弱いものだと守ってくれようとする人がいる、それだけでルチカはまだ生きていていいのだと思うことが出来た。
 それはまるで何も持たない自分に価値が出来たような気がした。できそこないで、痩せることしか能がなくても、ここにいてもいいよって言ってもらえた気がする。だから、いまはとても幸せだ。

 ***

 それから数日後、朝から起き上がるのが辛くて、しかし黒雪にはばれないように平気なふりをして出勤する彼を見送ったが、彼が家を出てからはずっと寝たきりで一日を過ごした。喉と胸が痛い。特に胸は息をするたびにきしむように痛む。夕方にもなっていないのに熱っぽい気がして体温計で測ってみると思ったよりも高い熱を出していた。喉も痛いから、風邪をひいたのだろう。

「ゲホッ、ゴホッゴホ……うう」

 咳まで出始めた。これはやっぱり風邪だ、季節の変わり目だから身体を冷やしてしまったのだろうか。とにかく喉が痛かったので台所に行って水をくむ。コップを持っている手がにじんで見えた、その時、胸がより一層鋭く痛む。そして咳が止まらなく出始めた。

「ゴホッ! ゲホゴホゲホッ! ゲホッゲホッ、ゴホゴホ……ごぷ、っ」

 ばっと真っ赤な血がシンクを染める。突然の出来事にルチカは驚いてコップを落としてしまった。割れたガラスと水が床に広がって行く。しかし咳はさらに酷くなり、止まらない。

「ゴフッ、ゴボ……ッ! ゲフゲホッ、ゴホゴホ、ゴフッ」

 咳き込むたびに真っ赤な血が辺りに飛び散って行く。息が出来ない、一体どこからの出血なのだろう、喉か肺か、しかし呼吸するたびに痛む胸は咳をしても痛む。慌てて手で口元を抑えて咳をすると、一回の咳で手のひらがべっとりと真っ赤になった。これは肺から出血しているのだろうか。
 
「ゲプッ、ゴボッ……ゴフュ、ガフッ、ぜいッ、ぜー……っ」

 息をすることが出来ない、ルチカは足元から崩れ落ち、そのまま床に倒れこむ。震える手でどうにか身体を支えて起き上がろうとするがもうそんな力も残っていなかった。

「お前の実の母親はこの村を出て行ってしばらくして、病に侵されて死んだ。風邪をこじらせて咳が止まらなくなり大量に喀血したらしい」

 そんなことを父が言っていたのを思い出した。まったく同じ症状じゃないか、たかが風邪だと思っていたのに……あの村に伝わる呪いはルチカを見逃してはくれなかった。

 ***

 いくらインターフォンを押してもルチカが出てくる様子がなかった。眠っているのだろうか、無性に不安になった黒雪はポケットから鍵を取り出し、やや乱暴にドアを開ける。部屋は真っ暗だった、しかし靴はある。慌てた黒雪が明かりをつけるとルチカは台所で倒れていた。その周辺、シンクから床まで真っ赤な血がべっとりとこびりついていて……。

「ルチカ……!」

 慌てて呼んだ救急車に乗せられたルチカの意識はなかった。呼吸は弱く、顔は真っ白でまるで陶器で作られた人形のようにも見える。手や口元が血で汚れていたので、ルチカが喀血したことに間違いはないのだろう。
 揺れる救急車は最寄りの総合病院にたどり着いた。そしてルチカは処置室まで運ばれて行く。黒雪はその姿を呆然としながら見送ることしか出来なかった。

 ***

 緊急入院することになったルチカは血で汚れた衣服から清潔な白い病衣に着替えさせられて眠っていた。痩せすぎのせいで服のサイズが合わなくて、服に埋もれてしまっているようにも見えた。

「原因がわかりませんが、ただ、肺の中になにか大きな傷のようなものがあるのは確かです。体力もだいぶ落ちているようなので、もしものことも覚悟してください」

 医者の言葉をどこか遠くで聞いている黒雪がいた。もしものこと、とはルチカを失うということだろうか。不幸だった青年は最近よく笑うようになった。これからは東京でもっと幸せになるはずだったのに……もっと早く病院に連れて来てやればこんなことにはならなかっただろうか。黒雪はただ自分を責めることしか出来ない。
 しかし、原因の分からない病。その時彼は村の噂を思い出した。その村出身のものは村から離れると謎の病を発症して死んでしまう、そんなこと迷信だと思っていた。しかし確かにルチカは病を発症した。理由の分からないそれは、村での噂通りだったと言うことか。
 震える手で黒雪は口元を抑える。自分が東京に連れてこなければルチカは病を発症することはなかった。たかが噂に振り回されて彼が不幸なままでいるのを見過ごすことが出来なかっただけだ、ただルチカを救いたいと思って村から出した。その判断が間違っていたと。

「あ、ああ……」

 後悔してももう遅い。ルチカも黒雪も戻れないところまで来てしまった。

 ***

 ルチカは長い夢を見ている。
 重苦しいその世界では見知らぬ人の視線が気になった。あの子は痩せているね、慌てて振り向くとそこにいたのはかつてのルチカだった。高校の制服姿で、一人ベルトの調整をしている。また痩せた、その喜びにあふれているようだった。
 そんなルチカを遠くから見ている青年がいた。黒雪、彼はルチカをじっと見つめて思い立ったように声をかける。黒雪がルチカを見つけた瞬間だ。痩せていたから、見つけてもらえた。食べないことを選択し続けて、空腹で眠れない夜もあったけれどそれでも痩せていてよかった。たった一人の孤独の人生はあまりに寂しすぎるから。
 ルチカはうっすらを目を開ける。明け方の病室でうつむいているのは黒雪、夢じゃなかった、彼はまだそばにいてくれたのだ。

「くろゆ、きさ……」
「目が覚めたかい、ルチカ」

 赤い目をして、黒雪が笑う。寝不足なのか、もしかして泣いていたのか。しかし、彼は何も言わずにルチカの痩せた頬を撫でる。温かい手、なんて優しい。

「ここ……病院ですか」
「ああ、もっと早く連れて来てやれば良かったな」
「早く帰りたい、黒雪さんと住むお家に帰りたいです」
「ルチカ……そのことだけどね」

 黒雪の告げた認めたくない未来に、ルチカは震えた。なんと言葉を発して良いのかわからない。絞り出した言葉は、いや、だった。

「やだ、……いやです、黒雪さん!」
「このまま君が命を落としてしまうと思うといたたまれないんだ。村に戻って、幸せな人生を探したほうがいい」
「あの村には僕の幸せになれる道はない……」
「私も頭を下げるから、実家にまた置いてもらえるように頼もう」
「実家になんて、戻りたくない!」

 ルチカは力を振り絞って起き上がって、黒雪にすがる。ルチカを支えながら黒雪はこれからのことを淡々と話す。

「いつか私もあの村に戻るから、そうしたら今度こそまた一緒に暮らそう。いまの仕事との兼ね合いもあるしすぐにとはいかないかもしれないが、きっとまた二人で暮らせるようになるから」
「いやだ、いやだ黒雪さん……」

 いまさら実家に戻ってもルチカの居場所はないのはわかっている。母にうとまれて、貴都を怒らせてそんな環境になんて戻りたくない。誰よりもそばにいたいのは黒雪だ、このまま離れて今度はいつ会えるようになるのか。二度と会えないこともあるかもしれない、ルチカが命を終えるか、黒雪が新しい人を見つけるか。どちらも認めたくない行く末だった。

「黒雪さ……ッ、ゲホゴフッ! ゴプッ、ゲホッゴホッ!」
「ルチカ……!」

 ルチカの病衣が真っ赤に染まって行く。口元は手で押さえ切れず、鮮血が指の隙間からあふれていた。そのままルチカはがくりと意識を失う。抱き留めた黒雪は慌ててナースコールを押して、そのままルチカは面会謝絶になった。
 呪いの様な病はルチカの生きる気力を失わせる。でもあの村から出ないほうが良かったとはルチカは決して思わない。たった短い時間でも、幸せな世界はそこにあったのだから。

「え……、どうして、それは本当ですか?」

 病院から電話があったのはその翌日の早朝だった。ルチカがいなくなった。もうろくに動くことも出来ない身体なはずなのに病院から姿を消したのだという。黒雪は慌てて家を飛び出す。どこに行ったのか予測はつかない。とりあえず自宅近くの川べりを歩いた。
 ルチカと一回ここを散歩したことがあっただろうか。夜明けの空をここから見たら綺麗だろうね、そんな話をした気もした。すべてはもう過去のことだったが、いまルチカは思い出の中にいるのかもしれない。東京で過ごした時間は黒雪にとっても幸せなことだったから。
 二人で見たかった景色、美しい夜明けの頃、白い衣装に包まれた一人の青年が橋の上から水辺を覗き込んでいるのが見えた。黒雪は慌てて走り出す。
 青年が川に飛び込もうとした瞬間その身体を抱き留めて、ずるりと地面に転がった。あまりに痩せているその身体は骨の感触がする。地面に転がったまま二人はしばらく震える呼吸を繰り返した。夜が明けて行く、今日は良い天気だ。

「なにを……ルチカ」
「黒雪さん、一緒に暮らせないのなら僕はもうなにもいりません。生きて行く理由も失ってしまった」
「永遠の別れじゃないだろう、ただ少しだけ待って欲しいんだ」
「多分、間に合いません。もうすぐお別れの時は来ます」
「ルチカ……」

 乱れた衣服のルチカは全身の骨格がすっかり浮いて、朝日に照らされてもなお真っ白で青ざめた顔をしていた。血の気もなければ生気もない、こけやつれた頬も隈に囲まれた落ちくぼんだ目も、黒雪は言葉を紡ごうとしてやめた。ああ、もう残された時間は……。
 黙ってルチカを背負って、黒雪は静かに病院に向かって歩いた。なんて軽い身体だろう、こんな身体では生きて行けるはずなんてないじゃないか。涙が溢れても拭うことすら出来ない黒雪。ルチカは疲れたのか、黙って黒雪に身体を任せていた。

 ***

 もう手の施しようがないと言われたのは病院に戻ってからしばらくのことだった。ルチカは再び大量に喀血し、真っ青な顔でぐったりとその意識は朦朧としていた。でも医師の言葉は聞こえたようでぼんやりとうつろに開いていた目を静かに閉じる。
 病院にいてもなにも変わらないのならば、帰りたい。ルチカの必死のかすれた声に誰も止めるものはいなかった。黒雪はそっとその冷たい手を握る。

「帰ろう、ルチカ。二人の家に」

 ***

 それから数度の夜と朝を二人で過ごした。食事は一切食べられずに飲み物も厳しくなってきたルチカは眠っていることが多かった。穏やかなその表情に黒雪は何度も痩せた頬を撫でる。二人は一時も離れずに、静かな時間を過ごしていた。

「ルチカ、少しだけ飲もう」

 そう言って黒雪はコップに挿したストローをルチカの口元へ。コップに注がれたミネラルウォーター数口飲んで、もういらないとルチカは首を振る。苦しくはないだろうか、痛みはないのだろうか。しかしもう何も出来ない。

「……黒雪さん、聞きたいことがあります」
「なんだい、ルチカ」
「痩せている僕は美しかったですか? ……僕は、あなたの特別になれましたか?」

 懐かしい風景、学校の中で孤独だったルチカを見つけた一人の教師。何も持たなかったルチカに価値を見つけたのは黒雪だった。それは誰よりも特別で、かけがえのないもの。ルチカはもうとっくに価値を手に入れていたのだ。

「ああ、とても美しかった。あの村で一番、綺麗だったよ。だから大丈夫、今度は君が痩せていなくても見つけてみせるから」

 もう痩せなくてもいいよ、その言葉はルチカの何よりもの救いになった。痩せている日々は長く苦しいものだったがそれももう終わりだ、これからは自然に任せて生きてもいい。あまりに平凡で周りに埋もれても、きっと再び黒雪はルチカを見つけるだろう。
 ルチカは幸せそうに微笑んだ。生きてきてよかった、黒雪に会えて本当に良かった。震える手を懸命に黒雪に伸ばす、彼の体温を感じて、この世界は現実だと確認してそのまま静かにまた目を閉じる。
 ルチカが穏やかに終わりを迎えたのは、その夜の終わりのことだった。

 ***

 月日が過ぎて、一人の青年はその村にたどり着いた。昔より寂れたような気がする、駅のホームに人影は少なく、本数のない電車を待ちくたびれているようだ。
 彼はかつて愛おしい彼と過ごした学校の跡地に向かう。その途中の道で少し老けた母親と思われる女性と真新しいスーツ姿の青年にすれ違った。髪を黒く染めてピアスも外した青年はすっかり真面目に見える。その日、各地の大学では入学式が行われていた。母親はそんな我が子が誇らしくてたまらないようだ。
 学校の跡地にはもう何もなかった。歴史のある校舎は壊されて、空き地だという看板がフェンスに掛けられている。唯一残された大きな桜の木は、かつてその学校に通う生徒を見ていた。春を迎えて散った花びらはかつて彼のおった身に余る苦しみも静かに見守っていてくれたのだろう。
 青年は満開の桜の木の下に銀の指輪を埋める。サイズは彼の薬指に合わせたもの、これをあの頃プレゼント出来なかったことが悔やまれる。きっと喜んだだろう、何を贈ってもいつも嬉しい顔をして微笑んだから。

 ***

 村人が最後にその青年の姿を見たのは、村からさらに北に向かう駅のホームだ。春、桜の頃、電車はその日の最終電車だった。駅の入口は閉められて駅員は静かに一日の仕事を終える。
 いまはもう、はるか、ねむりて。
 その後の青年の行方は、誰も知らない。

(終わり)